ブックスエコーロケーション

「SFとボクらの場所」をテーマにした本屋のブログです。実店舗はありません。開業準備中。

『ラギッド・ガール』

『ラギッド・ガール』
著:飛浩隆 グラフィックデザイン岩郷重力
初出【SFマガジン2004年2月号】

レビューです。雑誌に載ったのまではさすがにカバーしていないようなので。
あとネタばれしてます。未読の方はお気をつけください。

すべての背景にはひとりの醜い女がいた――数々の謎を秘めた仮想リゾート〈数値海岸〉の、技術的/精神的な成立基盤が明かされる開発秘話にして、人間の認知システムの極限を描く意欲作。

最初に感じたのは「気持ち悪い」ということでした。
ただここで勘違いして欲しくないのは決してグロい描写が連続する、とかそういうことではないのです。
では「なに」が気持ち悪かったのか。

わたしはその理由に、読者の「認識がゆらぐ」ことによって生じている気持ち悪さであると、考えました。

作中で〈数値海岸〉の開発グループのリーダー・ドラホーシュ教授は初対面の主人公、アンナ・カスキにこう言います。
「ぼくはね、現実世界に対して、何で右クリックが利かないのか、それが歯がゆくってさ」と――。
この言葉はつまり「現実世界を自分の好みにコントロールする」ということの表れであると、考えられます。
『ラギッド・ガール』の世界はどのようにしてそれを可能にするのか、それが中心となって物語が展開していきます。
また主人公であり一人称の語り手アンナ・カスキは非常に理性的に描かれます。
しかし彼女は「ラギッド・ガール」阿形渓によって所有されていた、情報似姿であったことがラストにて明かされます。
アンナ・カスキはコントロールされる側だったと言うことです。

以上に関する伏線は何重にも張り巡らされており、正直もしかして「なんかひっくりかえるんじゃね」という不安がつきまとって離れませんでした。
これをやられると、読者は安心して読めません。
不安を抱える ⇒ 気持ち悪い のではないのかと思いました。

さらに気持ち悪さを増すのが、視線の構造です。
物語がアンナ・カスキの一人称で展開されるというのは前述しましたが、これを模式すると、

【読者⇒ アンナ ⇒ 阿形を含む世界】

というのが成り立つのではないのかと思います。
ところが実際は、

【作者 ⇒ 阿形 ⇒ 読者 ⇒ アンナ】

であって、すっと自分の後ろに「ラギッド・ガール」が立ち上がってきます。
それが非常に薄気味悪い。

しかしそこにあるのは、読者が読むことによってコントロールしていたはずの世界が、突然切り替わって手から離れていく「心地よさ」。
アンナが阿形にアンウィーヴされたいと、阿形のものになりたいという思いと非常に似ていると考えるのは、私自身を理性的な人間であると誇示したい、そういう現れであると見せ付けられるようでした。