すべてはゼロから始めるために

小説家志望の雑記です。

真実の語り

 おれの部屋にはテレビがない。
 率直な語り口が正しいと思っている。自分の気持ちを素直に表に出すことが正当だと思っている。真実の語り、と『エンジン・サマー』のなかでは表現される、話法。うそはつかないしお世辞も言わない。無駄にまっすぐで、アジの開きみたいに内側をあっさりとさらす。さすがに四半世紀も生きていればわかってきたのだけれど、この語りだと存外に不具合も多い、のだけれど、もちろん理想や美徳として語られることでもあるし、そのようにたぶん躾けられてきたせいもある。「うそをつくな!」ただ潔癖だと言えばその通りで、言葉に対する潔癖さが高じて遂にテレビは見なくなってしまった。ニュースキャスターや政治屋の言葉に堪えられなくなってしまった。フィクションの言葉が聴きたければ楽しいフィクションだけを観ていればいい。映画を観ればより洗練されたものがあるだろうし、それが小説になればなおさらだ。
 この本当のことしか言わない/言えない、という語り方は、実はここ最近までまったく気がついていなかったのだけれど、完璧に引いてしまう人がいるということだ。ドン引きである。
 本心を剥き出しにした語り方は、全裸で目隠ししたまま研ぎたてナイフを思い切り振り回しているような感じを与えるのだと思うし、たいていの相手は本当に本心を剥き出しにしているのかと疑問に思うだろう。なにせだいたいは状況によって本音と建前を使い分けるのだから。
 これって本当に仲の良い、気心の知れた相手になら「ああまたこれかよ」と辟易しながらも付き合ってくれるのだけれど、初対面の相手にまでやってしまうのだから始末に終えない。
 もともと、そういう距離感のとり方が下手で、かつこういう感じに一応は考えられるから、初対面の人はおれと当たり障りのない会話がかみ合わなくて大変だと思う。おれはおれで初っ端から実のある会話をしようとぎらぎらしているわけであるw
 ただこの語りにも便利な側面があって、空っぽの自分を見つめるのには実に最適なのだ。なにせ偽装がない。タマネギの皮をめくる必要もない。そこにただ、あるだけ。こういう視座はおそらく人間味に欠けると思う。ただここ最近はそういう部分から目をそむけるという、実に人間的な方法を覚えてしまったのだけれど。


 で、小説で書く文章はどうなのか、というとやはり考えていることしか書けない。そのままである。おれが思っていることは書けるけれど、思っていないことは書けない。作中で思弁的な議論や対立を立ち上げることはできないのだ。ということはこれができるとひとつ、小説に深みが出るということなのではないのか、と思った。辛いけれども自分の視点とは正反対の思考でなにがしかを作ってみるとよいのかもしれない。というか、そもそもそんなに大切にすべきなのか「おれ」ってさ、とも思うのだけれど、こうやってエクスキューズするのは誰のためでもなく自分のためなのだ。