雪が降っているそうだね/今年は寒くなりそうだ/実際はどう感じているのか/集中が途切れていく/時間がいるんだ/どうにかやってのけるよ/少し時間がいるだけなんだ*1
あるいは怠惰な自己分析。
上記の日記がどうしてたぶんに詩的なのは、古川日出男選・朗読の「詩聖/詩声 日本近現代詩選」*2を聴いていたから、だ。1100円で50分弱のフルアルバムだ。付録で新潮の2008年1月号がついてくる。お買い得だと、思う。
古川日出男の文章が好きだ。できればペダンチックにやるよりも、ハードでラディカルでスタイリッシュな「詩的な言葉」の連続が、いい。それは音楽が好きだ、という時の、真に感性に起因したものだと、思う。そんな文章で『LOVE』のように、誰も気がつかないようなことにまでガンガン気を遣って、しかけをはりめぐらして、それでいてそれに気がつかなくても「小説」として楽しめるような、地方在住の人間に「三ヵ月後には消費されてしまう、いまの東京」を感じさせられるような、そんなものが書けるのには慨嘆するしかない。実に、スキルフル。
おれの書く小説の文章はよく「古川日出男に似ている/フルカワ風文体」といわれる。「読み手を加速させる文体」とも。もちろん真似ている。でも、なんというかおれとしては「自然に」かれの文章を書き出している、ようなトレースしているような、気になる。型武道をやっていたから、真似のなかから適正な部分を見い出す、調整していくっていうのが刷り込まれているのもある、と思う。
でも、ここのところ、佐藤大輔、矢作俊彦、村上春樹と特徴的な文体の小説を読んできて、今日改めて『gift (集英社文庫)』をぱらりぱらりとめくって、「詩聖/詩声 日本近現代詩選」を聴いて、やっぱりおれは詩的な言葉がなんというか好きなんだな、と。比喩とか、そういう意味ではなくて、言葉のリズムの点で、と思った。
だから、当面の、というかいまの致命的な弱点は、速いリズムの詩的な短文を多用しているくせに、ストーリーの展開まで、速いこと。断章の多用は古川日出男もやっているけれど、かれの場合はおれが四苦八苦して書き上げた短篇の長さで断章としていて、おれの場合はその短篇を断章で構成しているのだからさらに細切れで、それはまぁ確かに異様に速いのだろうと、思う。はやい、我慢できない、早漏。
「セカイ系」が事実上、その可傷性の罪と責任をすべてヒロインに預け、彼女に無条件で必要とされることで、その結果だけを享受する「もっとも無自覚な決断主義」であると定義できる*3
とは宇野常寛の言ですが、おれはたぶんずぅっとこんな感じで「だれかにわかってもらうために」、共依存的なロマンティシズムのために小説を書き続けている。おれ自身が決断主義。小説に対する姿勢とか、まさにそう。だからポスト決断主義的なものを書こうかなと、安易で思考停止な考え方で作品をつくっても、それは最初から攻略本を読んでゲームをプレイするようなもので、全然おもしろくない、と思うし、思ってもいる。
小説は、結局おれのことはわかってくれないし、読者が小説を読んでおれのことをわかってくれることはない。さらに言えば、おれはべつに小説のことも読者のこともわかりたいなんて考えてもいない。
じゃあ、なんのために書くの?
なんて思考はナンセンス。だからおれはここで仲俣暁生を召還する。
小説家というのは基本的に writer、つまり書く人だ、という基本をおさえるところからはじめよう。writerの価値は書くというアクションのなかにだけあって、書く人間の自我にあるのではない。小説とは動きの産物でありムーヴメントである。だから小説家=writerにとってはなにを書くかよりも、どのように書くかのほうが重要だ。「小説家」と「文学者」が異なるのはそこだし「小説」と「文学」が違うのもそこだ。言い換えるなら小説家とは動詞的な存在であり、文学者とは名詞的な存在である。 (中略)オリジナルなムーヴメントが駆動する起点さえあれば、小説家の内部が空虚であってもかまわないし、人間でなくてもかまわない。むしろ自我などというものは純粋な動きの邪魔になる。*4
自我などというものは純粋な動きの邪魔になる。
迷うのも悩むの好きで、他に楽しいことをいくらでも見つけられてしまうのにそれでべつになにかやらかせるような大人物でもないような移り気な人間が、小説家を目指すにつけて上記の言葉は最大の訓戒であり、矜持なのです。
んで、おれにとってのオリジナルなムーブメントとはなんなのか。
それはまぁあれです、いくら消費しても、全然消費できない、した気になれない、あれですよあれ。
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