すべてはゼロから始めるために

小説家志望の雑記です。

文体とそのほかいろいろ

 読んでいる小説から、あっさりと影響を受けます。いまだと佐藤大輔かな。佐藤節。豪屋節ともいうのかしら、そちらは読んだことがないのだけれど。でも、だからといって筆写などはしないので中途半端なのがしょっちゅうです。さらに言えば、自分にとっていいとこどりをやるのでなんだかずいぶんカオスな文章を書いてしまいます。そうやってさまざま作家の文体を摂取してきて、いまの、妙に早い文体が生まれてくれたのでは、と思っているわけですが。まぁまだまだ試行錯誤の余地が、小説を読めば読んだだけ見つかって楽しいのですがね。
 設定とかを決めずに、書きたいことを書きながら見つける書き方を採用している時は特に、文体によって物語がしっくりと転がってくれるので、それもなかなか捨てたもんじゃないですが、なにせ書く速度が圧倒的に遅い。1日に10枚も書けたらいいほうで、もちろんそれは他にも作業や労働をこなしつつ。1日にパソのまえでワードを開いて小説について想っているのは正味1時間も満たないかも。書けていないし、他にもゲームとかゲームとかゲームとかやりたいし、女の子とも仲良くしたいし、寝たくもある。うまいメシや快適な住環境も確保しなければいけない。家に持って帰ってやるような労働でもないので、そのあたりは大して辛くもないのだけれど、ずっと立ちっぱなしは足や腰にくる。
 気がつくとグチになっている。
 ダメだな。
 そう文体だな。
 文体。
 言葉の意味が「わかったっ!」と感じたのは『ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)』を読んだ時で、それ以来もうこの本は読んでいないのだけれど、それでもまず変わったのは「小説を読んでいて、文章をも楽しむ」ということだったのは、ひどく鮮明に覚えている。
 それでまでは動物的にキャラクターやシチュエーションに萌えていたのが、赤面しつつも思い出せる。それしか、見ない。盲信と過信と逃避と押しつけ。結局はそんなの、読者の解釈でしかないのに、と思うのだ。
 だからこそ興味が、書き手としての興味が、おれは移った。人は記号からでも物語を創出できるのだから、その記号がどれだけ過剰に情報を、物語の基盤たる情報を潜ませているか、ああそうだ、文章でそれを小出しにすればいい。そうすれば書き手の、せせこましい想像力と物語の筋に固定された盲信をあっさりと打ち砕いてくれるような、まったく想像の埒外の、輝かんばかりの想像/妄想/感想を、読み手は教えてくれる。
 だからおれは、小説を書くことはまずなによりコミュニケーションであると信じている。物語やキャラクターや文章を介して、間接的で、それでいてどうにも直截的な、書き手と読み手のコミュニケーション。もちろんそこにはキャラクターと書き手のコミュニケーションや、読み手とキャラクターのコミュニケーションといった、別種の可能性も潜んでいる。だってそれも、楽しいから。おれはそれも、知っているつもりだ*1
 だからジャンルとかレーベルとかは、会話における「話題」のひとつでしかないと思ってもいる。もちろんスポーツでも、多人数参加型ゲームでも、議論でも、セックスでも何でも構わない。ただ、いまのおれの手持ちのカードには、ガジェットSFと格闘アクションとなんだか結局書いたら青春小説、の三枚ぐらいしか見当たらないっていことなのではないのかと思う。それで会話がうまく成立しない!と嘆いても、こっちの話題が少ないから会話がもたないんだろう?と鼻で笑われるのがオチではないかと思うのだ。もちろんいまではこの三つをミックスして割合なんかを変えてやってきたのだけれど、そろそろ限界、というかおれが飽きてきているんだろうな、と思っている。
 というわけで今は、青春ミステリィと仮想戦記とアメリカ現代幻想文学を読もうかと、思っている。どうにもおれは幻想文学と何度か仲良くなりかけるのだけれど、まったく模倣できるような気配がないので、そのあたりもうちょっと意識的に読んでみようかとも思っている。まずは、ケリー・リンクだな。

*1:ここ最近だと『時をかける少女』の真琴や『キミキス』の摩央や『ぱにぽに』のベホイミだったりする