- 出版社/メーカー: コミックス・ウェーブ・フィルム
- 発売日: 2007/07/19
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なにが。
語りが。
主人公の、いわゆる春樹プロパー*1によく見られる劣化コピーでしかない、ナルシズム・リリシズム全開のだらなしくなさけなく、シャープでもラディカルでもない、『北の国から』のような鈍で死んでいる語りが。
新海誠の「絵」にけちをつけるのは難しいし、うまいというかきれいというかかなり好きだし、どこが好きってそりゃ「日々のこんなところに目をつけて!それをこういう風に描くのかすげぇやるなぁ!うーん鳥肌立つわ!」と前作、前々作よりずうぅっと思ってきていて、今作もどんな「心象風景」を見せてくれるのだろうと、去年の、卒論でひいひい言ってる時期からトレーラーを糧にがんばって期待していたというのに……。
彼の絵は、その風景の切り取り方はとても濃密で、そこに「解釈の欲求/意味の充足」を我々に沸き起こさせる力がある。絵の厚み、だ。わかりきっている風景を見たことのない風景へと昇華させる。その変化に、我々は目を奪われる。安易で乱暴な言い方をすれば、感動する。
でも、ダメだ。今回は、それが、殺されている。圧殺されている。
なにに。
語りに。
風景が、背景が、山が、電車が、木が、雪が、桜の花びらが、ROCKETの打ち上げが、波のきらめきが、深宇宙への道程が、シーンの切り換えや、カットバックが本来語るべき意味/言葉/心象風景を、ああもうそこにあるすべてが、主人公の語りによって、殺されている。
オーケー、もう少し安易で乱暴な言い方をしよう。すべてが、主人公の語りによって説明されている。
社会背景の説明のしなさすぎによって成立していた『ほしのこえ』と『雲の向こう、約束の場所』では信じられないぐらい、今回は饒舌だ。説明しまくっている。SF的な説明を? いいや、絵を見ればわかるはずの、そして今作ではそれ以外に見るべきところがない、主人公たちの感情を説明してしまっている。
これはどうにも大学同人誌に掲載される小説的ではないか。
もちろんおれは文芸畑の人間で、いまどき珍しくキャラじゃなくて物語に萌える人間だ。だから『イノセンス』も『スチームボーイ』も脚本レベルで否定する。絵がどんなにうまくても、否定する。同様にどんなに物語がおもしろくても言葉に気を遣えていない小説、大多数のケータイ小説やライトノベルは読む気がしない*2。さらに言えばアニメや小説や漫画や、そういったポップカルチャーにおいて、物語と表現方法*3の両立を図るのが、まず基本的な実作者としての、守るべき矜持だと思っている。
だから、おれはこの安易な語りを、それを設定させた脚本を、断固として否定する。
さらに言えば時代性が足りない。もし仮にこれが、新海誠が自己を療養するためにつくった映画だとしたら、ポスト・セカイ系たる決断主義が跳梁跋扈するいま、それはなんというか本当に、20年ほど古いのではないのか。つーかセカイ系のはしりだったのに逆行するなんてあーた、それはどうよ。80年代病ってやつですか、いまさら。同じところをぐるぐる。
作画に1年半かけたってインタビューで言っていたけれど、脚本/構成には何年かけたんでしょうか。単なるヴィジュアリストに成り下がったのか、「安易な方法での普遍性を獲得するための習作」なのか、正直『コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル』時でのインタビューでは想像できないくらい、なんか安易な方向へ転換しているような気がします。
でも、もしかするとここまで「わかりやすく」「あざとく」やらないといけないぐらい、普段映画を見ないような、普段小説を読まないような、そういう人々が脆弱になってきている、というかそういう人々に言葉が届かなくなっているということなのでしょうか。
それはすごく恐い事態だと思います。でもまぁ、較べられる方は見ていただきたいのですが、はてなとmixiではレビューの内容に差があるというのも、なんだかまぁ当然のような、興味深いような。
そしてだからこそおれが、狭い範囲ではあるけれどそのぶん濃度とクオリティが高いと言われる、SFというジャンルに傾倒しかかっているのであろうか。そしてそんな中でさえ、絶望せずに書き続け、決してカルトな長に収まりたくないと闘い続けている古川日出男が、おれは好きなのだろうか。