ブックスエコーロケーション

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『零式』

零式 (ハヤカワ文庫JA)

零式 (ハヤカワ文庫JA)

 大戦末期の1945年、帝国/LEV本土への遠征特攻を敢行した皇義神國/すめらぎしんこくは、報復の原子爆弾投下により全面降伏する。そして半世紀後、帝国統治下で鎖国状態の神國。原始駆動機/レシプロマシン《鋼舞》を駆る孤独な少女・朔夜は、己の破壊衝動をもてあましていた。しかし運命の夜……朔夜の荒ぶる心臓/エンジンと、囚われの天子・夏月の夢見る翼が出会うとき、閉塞世界の根底を揺るがす大いなる物語が幕を開ける――期待の新鋭が描く、疾走と飛翔の青春小説。

 臭い。ノベルゲームのような描写でありながら、だからこそ脇の甘い黒丸尚文体で綴られるのは、オタクの妄想と歴史の被害妄想と機械の誇大妄想を徹底的に煮詰めて濃縮して圧縮して、内燃機関の燃料にして爆発させて加速して読者さえもをぶっちっぎて置いてきてしまうような(でも内燃機関そのものが壊れることはない)、物語。排気ガスと油と、精液の匂い。たまらなく臭い。

 この作品にコンテクストを見出そうとした時、SFやミステリといったエンターテイメントなジャンル小説よりもなによりも、まずおれにはライトノベルのアニメ・まんが的なリアリズムとはまた違う、ノベルゲームの文章/描写のようなものが、見えた。ここでは上記リアリズムを、描写の仕方に偏向して思考していることをここで明記する。
 もちろん最近のおれは趣味が変わってきたのか、ライトノベルの文章が物足りなくなってきていて全然読んでもいないし(読む気もしない)、それと同調するように自分で描く物語も自然主義的なリアリズムの上で語った方が適当なものとなってきている。特に、描写が。
 また、これでもおれはノベルゲームは『月姫』と『君が望む永遠』の2つをやった時点で「生理的に『文章』が受けつけられない」と、早々にそちらの文化圏から目を背けてしまったオタクなので、実際どこまでおれが感じたノベルゲーム的リアリズム上で展開される描写について言及できるのか、という問題が生じる。
 しかしおれはここで怯まない。自分の嗅覚を信じる。だから述べる。
 おれが、この『零式』の文章で顕著に感じられたのは、黒丸尚文体で「映像化が前提の描写」が展開されるにもかかわらず、その多くが実に「読み易い」ということである。
 そこでおれは、敬愛する書店員ブロガー・id:Siphon氏を、その『零式』の感想を召還する。
 零式 - ほわいそーしりあす::ヴァンガードメモ帳
 もちろん『零式』を読む前にこの感想を読んでいたために上記のような考えに至った、ということも充分に考えられる。
 そして映像化前提のキャラ設定や描写と、読み易さという特徴は、ライトノベルにも当てはまるのではないのか、という意見もあるだろう。しかしむしろSiphon氏の感想でおれが感銘を受け、手に取ってみようと考えたのはこちらの文章によるのだ。

 個人的には「眼前に迫る巨大な壁」を表現するのに、見開き1ページ全てを「壁」の漢字で埋める技法が面白いなと思った。前例はありそうだけど。ネット上の文章なんかでは常套手段だよね。あと一行置きに上端揃えと下端揃えを持って来るやり方も効果的だった。

 過剰なタイポグラフィー。上記のほかにも、改行や章替え、「黒丸尚文体」なども挙げられる。
 この過剰なタイポグラフィーの徹底された映像化への奉仕と、読みやすさ。この奇妙で絶妙なバランス感覚が、どうもおれには「背景絵の上で流れる文字」=「ノベルゲーム」という印象を持たせたのではないのかと、考えるのである。そしてそのような描写、いやここではいっそ文体という言葉をつかってしまおう、小説というメディア上でファイアされたノベルゲーム的文体の、その真髄と骨頂ではないのかと、おれには思われたのである。

 ここでさらなる問題があって、それは、海猫沢めろんが、こういう「文体」でしか「小説」を描けない人間なのかということではなかろうか。そこは次回作と、彼の略歴に関してははてなキーワードを参照してもらうことにして、ここではこの『零式』が、煮詰まった/いるように見える懐古主義的なライトノベルへの起爆剤*1となって欲しい、と記してこのエントリを締めくくりたいと思う。

 でも、たぶん読まれねぇよなぁ、おそらく。くそ。

*1:冲方丁の『マルドゥック・ベロシティ』はおそらくそうはなっていない。だからこそ彼はわざわざライトノベルレーベルで「シュピーゲル共同戦線」を展開しているのだから。