すべてはゼロから始めるために

小説家志望の雑記です。

ポール・オースター『ガラスの街』

ガラスの街 (新潮文庫)

ガラスの街 (新潮文庫)

 それ以来、すでに五年が経っていた。いまでは息子のこともあまり考えなかったし、つい最近妻の写真も壁から外してしまった。時おりふと、三歳の子どもを両腕に抱く感触が戻ってくることはあったが、それは考えるというのとは少し違っていたし、思い出すというのでさえなかった。それはひとつの肉体的感覚であり、体の中に残された過去の刻印であり、自分で制御できるものではなかった。いまではそういう瞬間の訪れも減ってきていて、たいていのことに関し物事は彼にとって変化しはじめているように思えた。もう死にたいとも思わなかった。と同時に、生きているのが嬉しいわけでもなかったが、少なくとも生きていることを憤ったりはしなかった。自分が生きていること、その事実の執拗さに、少しずつ魅惑されるようになってきていた。あたかも自分が自分の死を生き延びたような、死後の生を生きているような、そんな感じがした。いまでは明かりをつけたまま眠ることもなかったし、もう何ヶ月ものあいだ、自分が見た夢をひとつも思い出していなかった。

 ゼロになることへの全能感。失墜の美学。不思議なストーリーテリング。叙情にあふれた都市の描写。探偵小説の結構とその脱臼。複雑な入れ子構造。そのだれもが不可分なものとして描かれるすばらしい小説だった。