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すべてはゼロから始めるために

小説家志望の雑記です。

「伊藤計劃以後や3.11以後などの区切りでSFを論じることについて、どのような考えをお持ちですか?」

 インタビューズの記事を転載します。こういう鋭い質問はいいですね、考えることを忘れた人間にはとてもいい刺激になります。


 実は今月23日にイベントで国内SFについて語る場がありまして、そこで話すことと被ってしまうことかもしれないと、答えることを惜しんでいたドケチのKASUKAです。ただそれまでに一度自分の中で整理しておく方がよい問題であると思ったので冗長でもいいので考えていこうと思い、打鍵しております。

 率直に言えば「伊藤計劃以後や3.11以後などの区切りでSFを論じること」には商業的、便宜的な意味しか見いだせません。ただ意味がないとは言い切れない。こういうわかりやすさが必要とされるような、個々人の内的世界が侵襲されるには充分の、つまり何がしかの影響があってもおかしくない大きなエポックであったと思います。その事実を「共有」したければすればいいし、そこで論じられることが何らかの生産的な想像力へとつながっていく、かもしれない。その端緒になるかもしれないと思うと決して無意味であるとは思えないわけです。

 個別に言っていけば、まず「伊藤計劃以後」というのは彼が作品で提示し、神林長平が「いま集合的無意識が、」で鋭敏にえぐり出した問題意識、それに応えようとした作品のことを指すのではないかと思っています。また、いずれ挑戦したいとも思っております。作品とはまだ勝負できますしねw

 同様に「3.11以後」ですが、すでに多くの「物語」が描かれており政治経済やノンフィクションに限らず、さまざまなジャンルで書店の棚を賑わせているここ半年ほどの状況を見ておりますと、いずれSFにもその影響が及ぶと思われます。その影響下にあり、どうにか作品に落し込むことで自分の問題として処理しようとしている、これから提示されるであろう作品を受け反応したいと考えています。予測的にこうなる、と言うのはとてもむつかしいでしょうし、そういうことを専門になさっている方々がいる手前、私が考えることはそういうことではないと思っています。その意味で古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』、馳星周『光りあれ』、開沼博『「フクシマ」論―原子力ムラはなぜ生まれたのか』はいずれ読まなければならないと思っていますし、SFマガジンのエッセイを読み、冲方丁小川一水長谷敏司の作品がこれからどうなっていくのか、やはり注目せざるを得ないです。

 もちろん私自身も影響を受けています。社会人になってからこっち、書いてきたSFはいつだって伊藤計劃の作品を意識してきましたし、3.11の際は衝撃が強すぎて早々に情報をシャットアウトしようとして随分叱られました。こう書くとまるで自分が渦中の人間のようですが、ただやっぱりどこかで私は論じられる側なのかなと自惚れているのでしょうね。