ブックスエコーロケーション

「SFとボクらの場所」をテーマにした本屋のブログです。実店舗はありません。開業準備中。

『もうすぐキミはサヨナラを言う』


 わたしはキミのことを知っている。
 キミの名前はツカサという。杉山司、年齢は十五歳、あと五日で十六歳になる。だから高校生になって、三ヶ月が経つ。キミは自分の名前を気に入っている。男の子でも女の子でも、そのどちらでも構わないような、そのどちらでもあるような名前をつけてくれた父親に、感謝すらしている。男女の別ない扱いに、射程(レンジ)の広さに、未定の性差に、可能性の大きさに。
 だからキミは自分を「ボク」と呼んで、つまり一人称が「ボク」で、その日はスカートをはいている。
 スカートの気分だった。
 プリーツスカートから伸びた足を、投げ出すようにベンチに座って、茶色のローファーをぷらぷらとゆらしている。ベンチは駅の、十六あるホームの五番目の隅に置いてあって、キミは父親の口座から分与された一八〇円でピッと改札をくぐって、そこにいる。
 でも、リニアには乗らない。朝からずっと、ベンチに座ったまま。リニアは一時間にだいたい十分の間隔で、キミの前で人を吐いて飲み込んで吐いて飲み込んで通り過ぎていく。朝と夕方に人の量が多くなって、昼間は少ない。だからキミは昼間が好きだ。そこはどうしても静かだ。ガガガガゴゴゴゴ拡張工事の騒音と、クックククック鳩の鳴き声と、カイソウシャリョウガトオリマスゥ――ゆがんだアナウンスだけが響いて、とても静かだ。
 キミは時折、思い出したように、トイレに行ってミネラルウォーターのボトルを買ってキャンディを食べて、笑わないし、LiveLog(ひとりごと)をつぶやくこともない。たまに話しかけられは、する。キミはだいたい返事をしないか、しつこい場合は河岸を変える。五番が七番になったり十一番になったりする。キミはベンチに座って、いつもだいたいなにもしてない。どこかを見ているようで見ていないし、聞こえてくる音に耳を澄ましているわけでもない。でもキミは大抵、なにかを口に含んでいる。
 ほら、キミは胸ポケットからキャンディを取り出した。それで何回目なのか、わたしは数えていない。でもキミが同じようにしてキャンディを食べるのをわたしは三ヶ月、見続けているからキミが、この後どうするのかも知っている。包み紙を両手で開いて、ピン――と紙の反動で丸いキャンディを打ち上げる。オレンジ色のキャンディは、空中で一瞬静止し、落下する。口の中に吸い込まれる。そしてキミは何事もなかったように足をぶらぶらさせている。表情に目立った変化はない。手に持っていた包み紙もいつのまにか消えている。もちろん――画像を巻き戻せば、どのタイミングで包み紙をポケットに入れたのかはすぐにわかるけれども、そんなことはわざわざ確認するまでもない。
 わたしはキミのことを知らない。知っていることしか知らない。これからやってくる彼に対して、どんな反応を示すのか、だからわたしは知らない。覚えていない。
 わたしは彼のことを知っている。
「よっ」
 キミに声をかけたのはヒラクだ。山室啓という。年齢は十七歳。もうすぐ十八歳になる。今週は彼の順番で、それはつまりプログラムが最終段階へと進んだということだ。
 更生計画(プログラム)――キミのような子どもを学校へ連れ戻すために教育委員会が専門団体に外注する計画――を、おとなたちはプログラムと呼んでいる。そこには段階的であり、劇的であるという意味が込められている。この三ヶ月の演目(プログラム)は、こうだ。まずクラスメイトの擬似人格が集められた。選別が行われ、中でもキミと仲がいいと思われるクラスメイトの擬似人格が、優先的にヒューマノイドにインストールされた。ヒューマノイドたちは順序だって、あるいは集団で、君の周りを取り囲み始めた。キミはクラスメイトをことごとく無視した。キミはクラスメイトと面識がなかった。ある者もいたが、時間にしてほんの数時間しかキミは教室にはおらず、それはとても些細な縁でしかなかった。改札口で毎日すれ違う勤め人と、なんども声をかけてくる若者と、大きな違いはなかった。三ヶ月かけてその様子が監視(モニタ)され、効果がないと判断された。
 そうして彼が、山室啓が投入された。彼はプログラムに協力している、キミとは何の関係もない人間だ。ボランティア――よって関係はこれから構築される。最後の演目が、プログラムの真骨頂が、ヒューマノイドによる等価(バーチャル)コミュニケーションが始まる。
 わたしはこれから起こることを知らない。覚えていない。
「おれ、山室啓ね。ヒラクって呼んで」
 キミはどこも見ていない。
「名前は?」
「知ってるはず」
「お、しゃべったな」
 彼はとてもうれしそうに笑った、ように見える。けれどもキミは、その笑顔を見過ごす。最初から見る気がないのだから、あえて見ていない、が正確かもしれない。そしてこの推測はまったく正しい。キミは無関心を貫いている。好意も反発も、相手の反応を望む、つまりコミュニケーションを求めるヒューマノイドたちには非常に有効な対抗策だ。好意はやがて不審に変わり、不審は嫌悪へと一足飛びに加速する。ヒューマノイドにインストールされた擬似人格がより忠実に人間を模倣していればいるほどに、それはより顕著に表現されるし、されてきた。
 もちろん、彼にもキミのこういう態度はフィードバックされていて、意に介した風もなくキミの経歴を口にする。それはいわゆるデータ上のものだ。履歴書に載るようなソーシャルな項目。キミの外面的であり、ある一面においてはまさにキミのそのものの情報。わたしがどこかのデータバンクに潜り込んだ先でまっさきに表示される自己証明。
 杉山司、もうすぐ十六歳、不登校の高校生。
 彼はそれを、妙な節をつけて、つまり歌うように、あるいはヒップホップのライムのように、口ずさむ。
 キミは顔をしかめる。
 わたしは驚く――画像の解像度をあげ、キミの顔をズームアップしている。キミの表情をキャプチャし、わたしは状況を追いかける。キミの表情の変化を、この三ヶ月間で初めて見せた感情の起伏を。
「怒ったか?」
「デリカシーは、ない」
 キミはきわめて平板な口調で告げた。気がつくと表情は霧散している。
「そういうことを言ってもいいのは……いや、やめようか、説教くさいし」
 彼は肩をすくめると、当然のようにキミの隣に座った。二人が横に並び、わたしにはキミの表情が見えなくなる。わたしは視点(カメラ)をスイッチさせる、させた――ホームの向こう側に、ベンチに並んで座っているキミと、彼が見える。
 彼は歌を口ずさむ。ベンチの上で指が的確なリズムを刻んでいる。ピアノの打鍵のように、ドラムのスティックのように。歌詞は相変わらず、キミだ。キミが歌われている。
 リニアがホームになめらかに滑り込んでくる。キミたちの姿は見えなくなる。わたしはさらに視点(カメラ)をスイッチさせる。俯瞰でキミと、彼のうしろ頭が見える。絵に描いたような流線形のリニアは寸分の狂いもなく停車し、空気の抜ける音と同時に車両のドアが開いた。
 キミは立ち上がり、乗降口に向かう。降りてくる人を待つこともなく、かきわけ進んでいく。
 歌うのをやめて、彼はそれを茫然と見送りそうになり――慌てて立ち上がって、キミを追いかける。
 キミはすでに車両の中で、三号車から四号車へと向かっている。
 彼は乗降口で手間取っている。身体を左右にふらつかせ、人のあいだをすり抜けて、車両に乗り込む。
 キミは四号車の乗降口からホームに降り立った。
 彼は乗り合わせた老婆の大きな荷物を運んでいる。老婆は恐縮したようにお礼を言っている。
 そしてリニアは定刻どおりに発車する。なめらかに滑り出す。
 キミはリニアを振り返ることなく、ホームのベンチに座りなおす。
 彼を乗せたリニアは加速し、遠ざかっていく。
 キミはまだ、そこにいる。
 わたしは見ている。
 翌日、彼になっての二日目。
「やられたよ」
 彼はそう言って彼女の隣に腰をおろす。六番ホームのベンチ。天候は日差しの弱い曇り空。彼は手をかざして太陽を臨む。彼は動きを止める。自分の仕草に一度驚いたように固まり、そしてうれしそうに笑った、ように見える表情をした。
「特急とかマジ勘弁だし。県境あっさり越えちゃうしなぁ。それでなんか、おばあちゃんとすげぇ仲良くなったし――そうそう、あのおばあちゃん、持ってる荷物なんだったと思う?」
 彼が訊いた。キミは空っぽの線路を見つめている。わたしは彼のLiveLogから情報を抽出する。
「あれ、脚部パーツなんだって、お手伝い用ヒューマノイドの。家に帰って組み立てるんだってさ。素組みのユニットじゃあバランスが悪いってパーツ集めに遠出して、それをわざわざ自分で持って帰る。通販もできるのによくやるよなぁ」
 彼は身体の前で両手を組み合わせて指をぐるぐると回す。キミはひとつキャンディを取り出して口に含む。わたしは検索結果から彼の言葉の真偽を確認する。
「どうしてか、わかるか?」
 彼はにやにやと横目でキミを見る。キミはぼうっとしている。しかし口は動いている。そこだけを注視することをためらったのか、すぐに彼は視線を外した。わたしは見ている、ふたりを見ている。
「動けることを忘れないためだ。身体がそこにあって腰は痛いし、荷物は重い、息はすぐにあがるし、トイレは近い、おなかもすくし、電気自動車(エレカ)にはひかれそうにもなる――けど、それが、自分の身体を持っているっていうことなんだ」
 それぐらいわかれよ、と彼はきつい口調で付け加えた。杉山は生身なんだからよ、とも。
「まぁ、全部嘘だけどな」
 彼は立ち上がる。軽やかにステップを踏んでベンチの背後に回りこむ。二回、身体を馴らすように跳躍。
 キミは、決して彼を見ない。ベンチに座ったまま、口を動かしている。口の中でキャンディは転がっている。
 それでも彼は動き始めた。身体の正面で両手を重ね、礼をし、遅くもなく速くもない速度で身体の軸を器用にずらしながら、傾け、バランスを保ち、転身し、不思議な速度で足を振り上げ振り下ろし、腕を振り回して姿勢を制御し――彼は踊り続ける。身体を、正確に言えば筐体を操作し続ける。
 だからわたしは聞く――サーボモーターの駆動音を、ホームと彼のスニーカーのこすれる音を、聞こえないはずの彼自身の鼓動を、電子の速さで駆けめぐる姿勢制御演算の輝きを。
 そしてわたしはようやく理解する――彼のその動きには、舞踏には、リズムが存在する。
 歌だ。昨日、彼が歌っていた、あの主旋律が全身でもって刻まれている。
 キミの歌だ。
 しかしキミは気がつかない。背後での彼の振る舞いを完全に黙殺している。――無関心。
 彼はなにものにも遮られることなく、踊り続けている。キミを、歌い続けている。動く、ことがまるで生きていることの証明のように。
 そして舞踏は不意に断ち切られる。
 彼は静止した。目から光りが失われ、茫然と立ち尽くしている。
 間。束の間の空白。人によっては舞踏のアクセントに見えなくもない急制動
 しかし、わたしは彼の断線を理解し、同期のズレを認識し、筐体の自律的な危機回避制御を把握する。アラートとそれに伴うポップアップが脚注(オーバーレイ)されている。同時に彼のLiveLogには猛烈な勢いで書き込みが流れ込んでいる。彼の状況が書き込まれている。わたしはその切実な状況を知る、初めて知った。
 そして彼は復帰する。一瞬だけ、力の抜けた表情を見せて筐体は回復する。彼はキミ顔負けの無表情さで――複雑すぎる情動を制御できずに表情の形成が間に合わないまま、言った。
「帰るわ」
 彼は立ち去った。キミはそれすら気がついていない。
 三日目――翌日も、彼はほとんど同じ時間にやってきて、キミの隣に座った。ベンチに深く座り、前かがみの姿勢で油断なく線路を見ている。しかし何かを狙っているような視線ではない。全身で身体を支えているような座り方――昨日の断線の際に見せた、あの無表情を引きずっている。表情の形成にまで手が回っていない。目に光がない。
「よう」
 彼は言った。キミは口の動きを止めた。キミの静止を、わたしは偶然であると判断する。彼の声色に、生気のまったく感じられない声に反応したものではない、とわたしは認識する。
「今日は話すだけだ」と彼は言った。「男の話。物語だ」
 彼は語る。焦点の定まらない瞳をそれでもキミの方に向けて、彼は語り出す。わたしは彼の語りにただ乗りする。
 砂漠にひとりの男がいる。歩いている。サイズの合っていない砂漠迷彩の野戦服の上から、日差しよけに防砂シートをかぶっている。男は砂漠を横断しようとしている。移動手段はすでに過酷な大地の餌食となっており、踏破するには砂漠はまだまだ広大で、男はさきに彼岸に辿り着く方が早いのではないかと思っている。これで何度目になるのか熱にあてられた思考は、巨大なサボテンを人と見間違えさせ、男を毒づかせる。
 そのとき声が聞こえた。「水が必要ですね」鈴を転がしたような軽やかな声だった。男は声の主から奪い取るように水の入ったボトルを受け取ると、キャップを開けるのももどかしかったのか発達した犬歯で噛み切り口に含んだ。むさぼるように飲み終わってから、男は一連の出来事が夢ではないことに気がつき――簡易催眠(メモリージング)による野戦反応――熱い大地に身体を滑らすように投げ出して腰のホルスターからハンドガンを抜きつけ声の主にポイントする。トリガーの決定権が男に戻された瞬間、男の視界は酸欠ですぐにブラックアウトしかかるが、「誰だ!」それでも男は誰何の声をあげた。そしてそれが止めになった。返事を聞く前に、男の意識はすみやかに暗闇に引きずり込まれた。
 男が目を覚ますと視界には満天の星空が広がっていた。日中の熱さがまるで嘘のように、男の身体は寒さに震えていた。放射冷却。熾き火を挟んだ向かいには見たことのないアンドロイドが座っていた。一見してアンドロイドとわかったのは、彼女の額に刻印があり、その刻印が軍属を示すもので、ナンバーからは看護用のアンドロイドであることがわかった。
「わたしはあなたを助けるためにやってきました」
「まだ生き残った人類がいるのか?」男は自らを人類最後の男だと思っていた。仕方のないことだった。三年前、太陽系外から襲来した隕石を模した天体兵器はその内側に大量の致死ウィルスを抱えていた。人類は地球外生命体の存在を知ると同時に、ウィルスの汎流行によって死滅した、男を残して。男はそう思っていた。
 看護用アンドロイドは「ヘイゼル」と名乗った。男の質問には「わからない」とだけ答えた。「まだ確証がない、現にあなたは生きている」
「は、人に出会う前に彼岸に渡るほうが早いだろうがな」男は言った。そこには自嘲の色があった。「おまえにはわかるだろう、言わなくても」
 ヘイゼルはためらいながらもうなずいた。男の身体は野戦反応についていけず、昏倒した。簡易催眠は実験的なものではあるが被催眠者を生存させるための技術であって、敵の目前で身動きを取れなくするようなものではない。男は確かに死の淵を覗いていた。ヘイゼルはマニュアルに従って男を介抱し、採血を行い簡単な診断を行った。男の血液は白血球の異常な増殖によってまっしろだった。全身を蝕む癌細胞の痛みに耐えていたためか、奥歯は残っていなかった。それは発達した犬歯と異様な対比をなしていた。
「宇宙白血病さ」男は言った。「おれは軌道降下猟兵(オービタル・イェーガー)だった」男は憑かれたように喋り続けた。「おれたちはもともと軌道上で神経線維の限界反応を計測する生え抜きの、実験中隊だった。隕石が降ってくるってときでも人類はまとまれなかったから、おれたちはすぐに宗旨替えさせられて気密処理も危なかっしい強襲ポッドに詰め込まれて敵国に潜入した。おれたちは実験の有用性を証明した。何度も何度も」男は銀色のIDタグをもてあそんでいた。多くの認識票(ドッグタグ)が男の手元にはあった。「で、隕石が落ちてきた。みんな死んだ。おれは生き残った。おれだけが生き残った。もうすぐ死ぬだろうが生き残った。だから、なにか意味があるのかもしれないと思った。このままでは死ねないと思った。だから、だから――」不意に男は咳き込んだ。「誰か、ひとりでも、」聞いたものの顔をしかめさせる嫌な咳だった。聞くものはヘイゼルしかいなかった。すぐにヘイゼルは男にモルヒネを打った。男はゆっくりと気を失った。男はうなされているように何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。
 次に男が目を覚ますと、全身が低い振動に揺られていた。無限軌道を持つ砂上車の座席に男の身体は固定され、運転席ではヘイゼルが巧みにハンドルをさばいて、砂漠を一定の速度で移動していた。不意に男は気がついた。ヘイゼルはどこかに向かおうとしているが、自分がそこに辿り着くことはない、自分はここで終わるのだ、終わってしまうのだ、と。世界はまだ暗かった。未明の空はそれでも、少しずつ色を変えて、原色の赤と青をぶちまけて撹拌している。しかし男は二度とその光景を見ることはなかった。
 枯れ谷(ワジ)の崖の、濃い影の中にヘイゼルは砂上車を停止させると、指示されていた通りに男の遺体をパッケージングしていった。その時だった。砂上車に通信が入った。ヘイゼルは通信装置から伸ばしたコードを首のジャックにはめると、着信に応じた。
「……はい、状況は終了しました。汚染対象の生体活動は完全に停止。当初の予定通り検体処理を施したのち、輸送任務を継続します」
「言葉に気をつけろ、ヘイゼル。その特進少佐は抗ウィルス剤の要となる人物だ、決して汚染対象などではない、丁重に扱え」
「了解しました」
「このようにして男は死んだのだ」
 彼は長い息をつく仕草をしてみせ、身体を弛緩させた。と同時にわたしは彼との同期を打ち切り、独立性を維持する。注釈すれば彼がこのまま語ったわけではなく、わたしを介した補足と脚色がなされていることを断っておく。彼の語りのすべてが重要ではないからだ。キミがどう受け止めたのか、ここではそれがもっとも重視される。
「まぁ、よくある泣き物(ティア・エクササイズ)だ。どうだった、おもしろかったか?」
「タイトルは?」キミは言った。
「タイトルは『犬の世界が終わるとき』だけど……え?」
 キミは彼の眼前にモバイルのディスプレイをつきつけた。
「ここに、このサイトにまったく同じものがあるけど」
 彼は驚いたように目を見開き、破顔した。
「よく見つけたな、それ、おれが書いたやつだよ。そこのリンクからLiveLogにも飛べる」
「ロボットのくせに」
 キミの言い分に彼は笑いを深くして応えた。
「今日はもう帰るよ。それにしても……初めてまともに話してくれたな」
 そう言って彼は立ち上がり、身体の向きを変え、立ち去った。
 キミは首だけを動かしてその後姿を追った。呼び止めることはなかった。
「皮肉がきいてる」
 キミはつぶやいた。
 翌日の四日目、通勤時間にぶつかってリニアがひっきりなしに出入りしているころ、彼はやってきて開口一番こう言った。
「実はもうネタ切れで、だから今日はこいつを持って来た」
 彼はキミの手を取り上げると、添えるようにチケットサイズの紙を渡す。キミは嫌がるそぶりも見せず、されるままだった。
「なに」
「書いてある」
 キミはチケットを見た。思ったよりも乱雑な字で「なんでもするチケット」と書いてあった。有効期限は終日とも書いてあった。
「なんでもやるの?」
「やる」
「じゃあ手を離して」
 おう、とうなずいて彼はキミの手を離した。
「おい、なにやってる」
 ふたりの背後から声がした。背の高い、ライオンのたてがみのような髪型をした、若い男だった。いつもキミに声をかけてくる、男だ。会っている回数なら彼よりも多く、キミが河岸を変える際の主な理由のひとりだった。以上がわたしの知る、その男についてのすべてだ。
「本当に、なんでもやる?」
 キミはライオン頭(ヘッド)の男を無視して彼に言った。
「やる」と彼はうなずいた。きっと彼は、キミの命じたとおりのことをするだろう。わたしは知っている。厳密に言えば、わたしは思い出している。
「じゃあ、この人と」
 キミと彼は、ライオン頭に向き直った。
「ケンカしてみて」
「はぁ?」と言ったのはライオン頭だった。
 彼はすでに間合いを詰めていた。
「そういえば」一瞬だけ振り向いて彼が言った。「LiveLogは読んだか?」
「え」
 そうしてケンカが始まった。ライオン頭の頬を、彼は平手打ちした。びっくりするほど大きな音がして、ライオン頭は痛みよりもなによりもまずその音に驚いたように固まった。彼はその隙を逃さず右、左、右と拳をくりだしている。彼のワンツーはきれいにライオン頭の身体に吸い込まれて、男の身体はくの字に折れる。低い位置に落ちてきたライオン頭の顔にためらいもなく彼は膝を打ち込み、そのまま身体を蹴り上げる。ライオン頭は仰向けに転がる。大きく何度も咳き込み、鼻の頭を押さえてうずくまっている。不意をついた、一方的な打撃。ライオン頭にはなにが起きたのかもよくわかっていないだろう、唐突な始まり。それでも彼は打撃の手を休めることなく、ライオン頭の身体を踏みつけていく。何度も何度も足を振り下ろす、あるいは身体を蹴りつける。
 キミは見ている。その表情には確かに感情が見える。驚きと恐怖と、そしてかすかな興奮が見てとれる。わたしはそんなキミを知らない。見たことがあるのかもしれないが、わたしは覚えていない。単にそう思うとしているだけかもしれない……覚えていない、忘れてしまった、と。しかし、もちろんそれもキミの一部だ。いまのキミには、いつもの無表情と無関心の隙間から生の感情が顔を覗かせている。わたしは不思議な感情に打たれている。
 ライオン頭が、彼の蹴りつける足を掴んだ。同時にライオン頭は彼を引き倒す。彼は倒れる。キミは悲鳴をあげるように口を開く。声は聞こえない。ライオン頭は彼に覆いかぶさるようにして押さえつけにかかる。彼は暴れない。待っている。タイミングを――ライオン頭の身体が彼を完全に押さえつけ、完全であるがゆえに安心したライオン頭の動きが一瞬だけ止まり、その止まった瞬間、彼は背筋の力で猛烈に跳ね起き、頭突きを、ライオン頭に叩き込んだ。あっさりとライオン頭はひっくり返ると、彼は自由になった身体でライオン頭に踊りかかった。しかし彼が捕らえる前に、ライオン頭は立ち上がり逃げ出そうとする。彼は着地、さらに跳躍、ライオン頭に追いすがる。ライオン頭は腕を振り回して距離をとろうとする。彼はその直撃をもらう。身体はまだ空中で、勢いは受け流されて彼の身体はホームを飛び越えて――ちょうどその時、特急のリニアが、ホームに滑り込んできた。
 誰かの絶叫と鈍く重い激突音と同時にパレンタルロックが働いて強制的に視点(カメラ)がスイッチした。
 わたしはまだ、このシーンを見ることは許されていないのだ。
 茫然と事故現場を見下ろすキミの背後には、彼が立っている。すっと彼がキミの手を引いて集まってくる野次馬のあいだをすり抜けていく。逃げるように移動していく。キミは手を引いている相手を認識すると、びっくりしたような、それでもどこかほっとしたような複雑な表情を浮かべて、毒づいた。
「ロボットじゃないじゃん」
「そこかよ」
 彼はあきれたように言った。
「勘弁してくれよ、あの筐体だってものすごい値段がするんだぞ。外見はこの支給品と大差ないけれど中身はまったく別物で、遠隔地感覚統合操縦(テレイグジスタンス)のコンペで入選した――」
 キミが笑っていた。目じりに涙まで浮かべてくすくす笑っている。
「山室啓は、そこにいるのね、本当に」
 引かれていた手を、キミは握手するように握りなおした。冷たい手だった、とわたしは覚えている。
「ああ、いる。ここにいる」
 神妙な面持ちで彼はうなずいた。彼の言うとおり筐体に差があるのか、表情のささない変化は再現できておらず、まるでキミのように無表情だった。
「これはまだ、有効?」
 キミは笑いながら握っていたチケットを彼に見せた。
「ケンカはもう勘弁な。つかなんでケンカよ?」
「え、いや、だってロボットができるとは思わかったから……でも大丈夫、安心して。今度は簡単」とキミは笑ってから「明日、ボクと一緒にでかけてくれればいいだけだから」
「有効期限は今日までだったと思うが?」
「今日、約束するなら、有効だと思う」
「まぁ明日は杉山、誕生日だしな、りょーかいりょーかい」
「そう誕生日。だからどこかで、おいしいものでも食べたいな」
「嫌味だなぁ、おれはベッドの上でまともな食事もできないってのに」
「え?」
「……ほんとにおれのLiveLogを読んでないんだな」
「ボクのリアルはそこにはないから」
「はは、だから不登校児なんだもんな」
「うるさいなぁ、引きこもり」
 ふたりはにらみ合うように顔を寄せ、握ったままの手に気がついて、笑った。
「ありがとう」
 キミの言葉に、彼は片手をあげてそれに応え、立ち去った。わたしはその後姿を知っている。
 彼の順番になって五日目、キミは、杉山司は誕生日を迎えて十六歳になった。
 彼は、山室啓は変わらず笑顔でやってきた。
 わたしは、そんな彼を知らない。
 そしてキミは彼を無視する。やってきて饒舌に喋っている彼を、キミは完璧に無視し続ける。
 わたしは苦痛を感じる。いや正確に言えばこの五日間を、更生計画の三ヶ月(ログ)を、見直すことそのものが苦痛だった。治りきっていない傷にナイフを押し当てて、自分でわざわざえぐるのと同じだった。だけれど――この痛みがいまのわたしを保証している。痛みがあるから、これが自分の一部であると認識できるのだ。
 だから、わたしは思い出す。この日、本当に久しぶりにキミはLiveLogにつぶやいた。どこにも向けることのできない感情が不意にこぼれたようなつぶやきだった。キミはただ一言「どうして」とだけつぶやいた。傍目にはキミは変わらず、ただベンチに座っていた。それは彼を待っているようにわたしには見えたし、確かにキミは彼を待っていたのだ。わたしは覚えている。でなければ、わたしがこの記録を見直す理由がない。キミはその日、ひとりだった。キミは確かにひとりだった。
 そして――確かに彼もやってきていたのだ。
 しかし、キミには見えていない。
 思い出したようにキミはこの日、初めて彼のLiveLogにアクセスした。彼のアップしていた物語のリンクから、LiveLogを覗いてみた。しかしキミは彼のLiveLogにアクセスすることができなかった。
 彼はキミの隣で喋っている。
 キミは知る。彼が五日目の早朝に亡くなっていることを知る。彼のLiveLogはすでに死者のものとして中枢データベースの慰安室(セメタリー)に格納されており、キミにはアクセスすることができなくなっていた。
 彼は顔の前で両手を合わせ、拝むように謝っている。
 キミはまだ十六歳で、不登校の高校生で、つまり子どもそのものだった。キミはまだ、死者の情報に触れることはできなかった。
 彼は指折り数えてやりたかったことを、キミに伝えようとしている。
 不意にキミは、助けてくれる人がもういない、ということに気がつき、助けられていたという事実を理解した。確かに彼の身体は筐体、かりそめのものであったが、山室啓はキミの知る限り、もっとも人間らしい人間だった。筐体すら自らの身体となしていた彼は、人間だった。彼はなんと言っていた――動けることを忘れないために。
 そして、彼は不意に押し黙ると、片手をあげて、消え失せた――LiveLogが格納されると同時に起動するよう設定されていた彼の、遺言書(オーバーレイ)。語り動く拡張現実(オーギュメンテッド・リアリティ)の遺書。そのことを、キミはまだ知らない、見ることができない。
 キミはベンチから立ち上がって、口の中のキャンディはそのままに、高校に登校した。更生計画の思惑通りだ、とキミは思ったが、素直に授業を受けて卒業し、あっさりと大学生になった。


  *


 それから三年が経って、わたしはいままた、あの時の駅の、ホームの、ベンチの前にいる。
 わたしは十九歳になり、背と髪が伸びて、パレンタルロックが緩和され、彼の、格納されたLiveLogにアクセスすることができるようになった。そこには自身の病気、白血病のことや「キミ」についての記述もあった。彼のLiveLogはとても饒舌でわたしはすぐそこに彼が立ち上がってくるのを感じて、同時に亡くなる前日でぴたりと止まってしまっているLiveLogに、その空白に、わたしは彼が本当に亡くなったことを理解した。更生計画の概要とログも、ボランティアとして参画することで閲覧できるようになった。それらの情報を束ねて、心の準備を整えると、わたしは赤いプラフレームの電脳眼鏡(スペックス)を購入した。
 かなわないな、とわたしは思う。彼のLiveLogを読み直すたび、そう思ってしまう。だからこそ、言わなければならない。わたしは奥歯でキャンディを噛み砕いた。スペックスの視界の中で、トリガーされたオーバーレイが爆発的な光を放ってわたしの周囲に展開していく。わたしの世界が、塗り替えられていく――わたしはキミのことを知っている。


 *


 彼が歩いてきている。五日目の彼が、わたしに向かって歩いてくる。わたしがここにやってくるまでの一〇〇〇日間、幾度となく繰り返されてきた、朝の風景。ベンチにいるわたしは、杉山司は、彼に言うことができなかった言葉を伝えるためにここにいる。ありがとう、はもう言った。だから、もうすぐキミ/わたしはサヨナラを言う。