ブックスエコーロケーション

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『ゼロ年代SF傑作選』の解説を読んで。

 藤田直哉氏の解説だけを読んだ。この傑作選が確実に「リアル・フィクション」傑作選であることが収録作からわかっていたので、どのようなアプローチをしているのか、気になったのでまず解説だけを読んだ。
 ハードとソフトの両面からきちんとアプローチされていて概観を、当時どのようなムーブメントがハヤカワ文庫JA内で起きていたのか、ということがわかりやすく書いてあった。確認するようなかたちだった。どの程度ずれていて、どの程度合っているのか。
 ごく個人的に、「次世代型作家のリアル・フィクション」を説明するときには、焼き直されるSFモチーフ+現実にコミットできない少年少女の青春小説という言い方をしてきた。この説明ではあえて、どこの文庫から出ていることも条件に含めていない、ソフトの、中身の部分での説明だった。なので、この説明に当て嵌まるものは、たいていリアル・フィクションであった*1
 そしてこの藤田氏の解説で、思い出したことあったのでソフトの部分に追記しなければならないと思った。ぼくが当時、読んでいてどこの部分に心奮わせられていたのかを思い出した。
 サバイブ感があった。
 閉塞した状況の中で、主体において(現実と等価な)フィクション/バーチャルを通じて未来を志向する。
 その物語に、SF化したセカイにおいてこう生きていてもよいのだ、とまさに<未来像を描き変えるソフトウェア>の役割を見い出していた。こんな風に生きてもいいんだ、と。『マルドゥック・スクランブル』『サマー/タイム/トラベラー』『スラムオンライン』『ブルースカイ』『零式』『マルドゥック・ベロシティ』がぼくにはあった。ぼろぼろになりながらもそれでもこれらの力強い物語を書かなければならなかった作家たちの姿を、ぼくは幻視した。
 そう、ぼくたちは確かにそこにいて、そしてこれからも生き延びていかなければならない。だから忘れてはならない、そこにいた、ということを。

*1:細田守版『時をかける少女』や水森サトリ『でかい月だな』も含めていた。