ブックスエコーロケーション

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『ビッチマグネット』舞城王太郎

新潮 2009年 09月号 [雑誌]

新潮 2009年 09月号 [雑誌]

 人間のゼロは骨なのだ。そこに肉と物語をまとっていく。それぞれの物語を抱えた父母姉弟が織り成す、リアルで新しいファミリー・ロマンス。長篇二九〇枚。

 舞城王太郎特有の過剰さが抑え気味だった。正確に言えば肩の力が抜けた作品なのだろう。『ディスコ探偵水曜日』の後だから、というのも影響しているはずだ。だからといって劣化しているわけではなくて、相変わらずやっていることはまっすぐだ。ただそのまっすぐさはこの作品では少し違っている。いわゆる自然主義的リアリズムに寄り添った正統さなのだ。
 冒頭で弟の創作した物語から夢の世界が描写されて、あれずれていくのかなスーパーナチュラルの方向に行くのかなと思ったら、夢の描写はそれだけで終わった。すこしほっとした。そういう方向に行かれると読む方もとてもエネルギーが必要で、いまのおれにはちょっと勘弁して欲しかったのだ。もちろんこれは作品云々ではなくておれ個人の体調の問題だ。
 特徴的でありながら、現実に即した、思考を文章に落とし込もうとしている文体で、描かれるのはどこにでもある人間模様だ。ただ舞城王太郎は毎回どの作品でもそうだけれど、メタ化された人間関係/キャラクターに登場人物を落とし込むことがどういうことなのか、ということに対してとても敏感に、小説を書いている。名探偵であるということは、であったり、余命いくばくもない彼女のそばにいる小説家であるということは、などである。そして、こういうキャラクターに落とし込もうとする視点を今作の主人公は、

 メタ視点も大事だけれど、本当の姿を誤魔化すためにそれを用いて本来の自己に《そんな自分のこともお見通し、演技にすぎないんだから結局は》みたいなでっち上げの自己像をかぶせて真実を埋没させてしまってはならない。

 と、警告する。ビッチを惹きつけるマグネットであると自虐する弟もビッチの定義がうまくいかない。こういうアプローチがとても丁寧に思索されていく。でもけっこうひりひりするような人間関係が生み出されて、それだけでもうなかなかおなか一杯サスペンスだった。こういう人間関係=コミュニケーションに反応しているおれは言うまでもなくコミュニケーション欠乏症なのだな、と思った。
 あと、高校生でレイモンド・カーヴァーを読んでいる、というモチーフは『煙か土か食い物 (講談社文庫)』でも出てきていたけれど、ラストの小説『骨』のことを考えるとこれはちょっと宗旨替えがあったのかな、と思う。それともやっぱり同じことが言いたいのだろうか。もう一度『煙か土か食い物』を読み直さなければいけないし、読み直さなくても大丈夫かもしれない。