すべてはゼロから始めるために

小説家志望の雑記です。

『アンブロークン アロー 戦闘妖精・雪風』神林長平

アンブロークンアロー―戦闘妖精・雪風

アンブロークンアロー―戦闘妖精・雪風

 われはここに人類に対して宣戦布告する
 地球のジャーナリスト、リン・ジャクスンに届いた手紙は、ジャムと結託してFAFを支配したというロンバート大佐からの、人類に対する宣戦布告だった。ついに開始されたジャムの総攻撃のなかで、FAFと特殊戦、そして深井零と雪風を待ち受ける、思いもよらない過酷な現実とは――。
 『戦闘妖精・雪風<改>』『グッドラック』に続く10年ぶりのシリーズ第3作、神林長平デビュー30周年記念作品。

 とてもおもしろかった。けれどなんというか、いつもそうなのだけれど神林長平の作品は構造をすかして読み取ろうとすると、いつも同じムーブメントが立ち上がってきて、うんそれが神林長平のオリジナルのムーブメントなんだよね、そうだよね、と思う。で、他に何も言えなくなってしまう。まぁいっつもおれは本当に好きな作品に対しては「どんなに言葉を尽くしてもこの作品を表現することはできない」とでも感じているのか、全然まともな記事がエントリできていない。できたとしても短いし、内容に踏み込むのではなくておれ自身がどう感じたのか、その記録にしかならないのだ。だから残念ながらこのブログは決して書評ブログでもなければ読書感想文の模範解答を探す場所でないことを理解していただきたい。
 今作で、神林長平は一人称を多用しているのだけれど、思考の流れを文章に落とし込む際の取りこぼしを極力少なくしようとしていながら決して冗漫な文章になっていない、その構築美に驚く。そしてこの一人称すら後半の伏線となしたというのもやられたなぁと思った。
 作中では実はぜんぜん時間が進んでいないし、巻き戻ったり進んだり色々しているおかげで、ものすごく停滞しているイメージの小説だった。同じことを繰り返し考えているような、答えはわかっているはずなにうまく言語化できない、そういうすごくむずむずするような停滞感。哲学が結果ではなく、その過程を重視する学問であるように、この小説も、この厚みのなかで思考されたことを読者が追いかけることによって、零と雪風、ひいては地球人とフェアリィ星人、ジャムという構造がきちっと立ち上がってくる。
 神林長平セカイ系の先駆であると看破したのは笠井潔であるが、「世界の危機から、世界へと向き合う方法」を描くために「きみとぼく」を用意しているという点で、ライトノベルのそれとはまったく別物であると言える。いわゆるセカイ系は「きみとぼく」の関係を劇的に演出するために「世界の危機」が用意されるからだ。もちろんキャラクター先行か、思弁先行かという違いであるが、それが表現のフィールドに起因していることは言うまでもないだろう。ここでの思考はとてもシリアスで生真面目で、とても根源的で、どうしようもなく切実である。この切実さがおれは好きなのだな、と気がついた。
 空中給油の描写ものりのりで書いてある*1のはわかったのだけれど、やっぱりラストシーンのリン・ジャクスン視点がかっこよすぎる。どうあっても戦闘機は地上から見上げるものだしね。あと、これ、確実に4作目を出す気配がする。というか闘い続ける、その先を見たくなる、そういうエンディングでございました。

「自分の存在のコントロールを雪風から自分に取り戻せ。そして、ジャムからもだ。おれがいまやりたいのは、そういうことだ。おれの生は、おれのものだ。だれのものでもない、雪風のものでも、ジャムのものでもない、おれの、生だ」
 そして、雪風もそれを望んでいる。とは、そういう意味だ。

*1:もちろんこのシーンが単に機械への執着によるものではないことは明らかだろう。零は雪風の自動給油に任せず手動でそれを行った。自ら母乳を求めた、ということが、自らの生を望んだ、と暗喩されているのである。