さっきまで完璧に寝オチしておりまして、そのあいだに見た夢というのがなんともあれでございまいした。
ご親戚一同で洪水から脱出したり、同い年のいとこや親戚のお姉さんと仲良くなったり、とどう考えても『サマーウォーズ』です、ありがとうございました。意味も価値も脳みそに由来するわけで、いまの俺はどうやらそういうことに関心がある模様です。なお実写で登場人物はみな知り合いだったのですが、すばらしいことにひとりも実際の血縁は登場いたしませんでした。にも関わらず登場人物をみなご親戚として認識しておりまして、その生々しさはこういう記事を書かせるぐらいはっきりしたものでございました。脳、すげぇな。
先日、掌編*1を仕上げまして、先輩のプロの学生さんや後輩の家事手伝いに読んでもらったのですが、SFよりも一般文芸に、普通の女の子の描写のほうがうまくね、という言葉がとても強く印象に残っています。正直、上記の掌編は手癖で書いたような、お茶を濁したような、そういう作品ではありまして、まぁ肩の力を抜いてのびのび描きました。とても書きやすかった。特別な挑戦もせず、等身大の力で描いたものでした。
合評中、上記のようなことを指摘され、すわ古川日出男の『サウンドトラック』のヒツジコや舞城王太郎の『阿修羅ガール』のような「ガールズ」という感覚を捉える、そういう部分が確かに優れているのかもしれないとは思いもしました。ただここにあるのは「降ろしてくる」という言葉が当て嵌まるような、感覚に丸投げしてしまうようなものなのです。考えなくてもいいのでとても書きやすい。いや、考えてはいるのですが、意識して考えるのではなくて無意識に考えている。
いやそれで小説が書けるなら書いてしまえよ、ということなのですが、なんというかもうちょっと俺としては体系だった方法で小説を書きたいなぁ、と思うのです。*2基礎と基本がきちんと身体に馴染んでから、そういうものを意識しなくても自然に/自発的に身体が動いてくれるような、そういう境地を目指したいな、と。はは、武者修行中の武芸者のノリですね。こういう感覚を見事に描いているのは言うまでもなく井上雄彦の『バガボンド』で、ちょっと長すぎるのが欠点ですが、そのどこまで行くかわからないという部分も本当に「よくわかる」のです。ええ、なけなしの感情移入です。
はい、というわけで考えるのが苦痛なら、夢見るように小説を書け、ということで。あー、でもSFが書きたいのだけれどなぁw