ブックスエコーロケーション

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『わたしたちが孤児だったころ』カズオ・イシグロ

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

 上海の租界に暮らしていたクリストファー・バンクスは十歳で孤児となった。貿易会社勤めの父と反アヘン運動に熱心だった美しい母が相次いで謎の失踪を遂げたのだ。ロンドンに帰され寄宿学校に学んだバンクスは、両親の行方を突き止めるために探偵を志す。やがて幾多の事件を解決し社交界でも名声を得た彼は、戦火にまみれる上海に舞い戻るが……現代イギリス作家が渾身の力で描く記憶と過去をめぐる至高の冒険譚。

 イギリスではなくて英国である。社交界があり、名探偵が名声を勝ち得るそういう英国が描かれ、どこか他人事のように戦争が大きな悪として描かれる。劇的だ。とても。ここ最近こういう英国もの*1に触れる機会が多かったせいか、あるいはカズオ・イシグロの作品を続けて読んできたせいか、どうにもこういうモチーフに食指が反応してしまう。探偵で英国で上海で租界で戦中なのだ。もうなんか事件の匂いがぷんぷんする。
 ところがだ。まぁ当たり前の話ではあるけれど、小説家は読者の好みなど斟酌してはくれない。
 この『わたしたちが孤児だったころ』で描かれるのは、まさにタイトルの内容が描かれる。
 主人公は孤児となり、孤児ではなくなる。孤児ではなくなる、ということはどういうことなのか。

 わたしたちのような者にとっては、消えてしまった両親の影を何年も追いかけている孤児のように世界に立ち向かうのが運命なのだ。最後まで使命を遂行しようとしながら、最善をつくすより他ないのだ。そうするまで、わたしたちには心の平安は許されないのだから。

 この小説には3人の孤児が出てくるのだけれど、つまり彼らは前のめりに闘っている、ということなのだと理解した。
 そしてもちろん孤児だったのは、読者もだ。「わたしたち」には読者も含まれている。物語の構造上、彼は、クリストファー・バンクスは、本当に孤児/名探偵だったのだろうか、という問いが存在する。自制の利いた文章が描き出す物語、彼の記憶は本当にあったことなのだろうか、という問いが常に心地よい距離となって小説と読者の間にわだかまっている。ずっと。齟齬があり、修正し、食い下がる。この絶妙な距離感、小説に対する不安感は、ぽんとひとりで世界に放り出されたようなもので、読み終わったいま、確かにぼくたちも「孤児だった」のだと理解する、そういう小説だった。
 ちなみに解説は古川日出男で、この解説がまたのりのりで奮ってるわけです。