- 作者: 田中ロミオ,mebae
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2008/07/19
- メディア: 文庫
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久々の徹夜本。青春ライトノベル。『ゼロ年代の想像力』へのアンサー・フィクションであり、レイプ・ファンタジーの構造からフィクション本来の「力」を高らかに謳い上げている。この優等生な回答やディテールの同時代性は、ほんとうに「空気読解者」の真髄を見せられた気がする。文章もびっくりするぐらい丹精でイラストもエロかわいくて申し分ありません。ああそうか、こういうのが非の打ち所のない傑作って言うんだろうな。
構成や演出、イラスト、文章含めてすばらしい完成度で昨今の有象無象ハーレム系ラブコメ・ライトノベルを10巻まとめて買うよりかはこの一冊にお金を使って何回も読んだほうがマシ、とまで断言してしまいますが、ここでKASUKAが言いたいのはそういうことではないのです。
フィクション本来の「力」を高らかに謳い上げている。
この文章をいま一度、自分自身のために整理してみなければいけないと思ったのです。
主人公の佐藤一郎は元・妄想戦士であり、ヒロイン・佐藤良子を筆頭としたクラスの半数を占める妄想戦士たちを「俺は憎む。稚拙な自己顕示欲を、未熟な精神を、うかつな発言を。愚かしい無防備さ」と唾棄している。
ところが行き詰まってしまった佐藤良子は「三階踊り場の向こう側」に行こうとしてしまう。
そこで佐藤一郎は再び妄想戦士として立ち上がり、佐藤良子に自身の妄想/フィクションでもってリアル/普通へとコミットする方法を提示する。ただ妄想だと切り捨てるのではなく。
フィクションをフィクションとして(自覚して)楽しむこと。だからこそ、われわれはその日の気持ちを切り替えて、向き合うだけでなく、明日も現実と闘うことができるのだ。
これがフィクション本来の「力」だとKASUKAは思うのです。この作品で提示されるフィクションの「力」はどこまでも優等生的な肯定ではあると思うのだけれど、この作品を読むことでわれわれは少なくとも「フィクションをフィクションとして楽しむ」ということの、その片鱗を、とても楽しく、そして胸をえぐられるような痛みとともに知ることができるのではないのでしょうか。
だからこのライトノベルの結末は、ケータイ小説を「実話」として読まなければならなかったり、水がなにかを知っていたり、血液型で人をラベリングしたり、超知ライブラリーをしごくまじめに読んだりしなければならいような人たちと、少なくとも一線を画いている、と思いたいのですかいかがなものでしょうか。ん?これもオタク的な選民思想ですか、そうですか。
まぁそういうことを抜きにしても、id:mizenさんは読むべきだと思います。ぜひ感想をうかがいたいものです。