すべてはゼロから始めるために

小説家志望の雑記です。

『13』古川日出男

13 (角川文庫)

13 (角川文庫)

 1968年、橋本響一は左目だけが色弱という特異な障害をもって生まれた。高い知能指数と驚異的な色彩能力に恵まれた少年響一は、従兄の関口と共にザイールに渡る。そこで彼が出逢ったのは、片足の傭兵「13」を通じ、別人格を育んだ少女ローミだった。
 驚異の体験を経て渡米した響一は、26歳の時にハリウッドの映画制作現場で神を映像に収めることに成功する。
 溢れ出さんばかりの色彩と言葉、圧倒的なディテールが構成する空前絶後のマジカル・フィクション。
 三島賞作家の瞠目のデビュー作。

 なるほどなぁ、と一読して思った。この作品には古川日出男のすべてがある。当たり前なのかもしれないがアイデア/モチーフの系統樹の根っこのように見えるのだ。
 そのひとつに『アラビアの夜の種族』でひとつの到達点を見せたマジック・リアリズムへの傾倒があげられるだろう。作中では実にさまざまな「奇蹟」が、まず読者にその合理的な説明がなされてから開陳される。これはなんというか彼自身が好きだと述べているスティーブ・エリクソンによく似ている。つまり、チュツオーラのような天然なマジック・リアリズムではなく、エリクソンのような秀才的な/意識的なマジック・リアリズムへのアプローチだということである。だからどことなくその説明づけには山田風太郎の『甲賀忍法帖』のような、胡散臭いのだけれどどうにも憎みきれない愛嬌のような、けれどそれを極まじめに書いていて、その妙なアンバランスさがおもしろかった。もしかしたら失敗と言われるのかもしれないけれど。
 他にも「犬の少年の話」は『ベルカ、吠えないのか?』に通じるし、第2部冒頭のマーティン・ケリー監督へのインタビュウ記事のペダンチックさは『ボディ・アンド・ソウル』を彷彿とさせる。
 しかしこれはたぶん売れない。ぜんぜんコマーシャルな小説ではない、ということだ。
 孤高と言い換えてもいい。
 そしておれはそういう偏屈なくせに、真摯な姿勢の小説が大好きだ、ということなのだ。意識的に世界文学というフィールドで、最初から勝負をかけようと書いている、ということがありありと伝わってくる言語感覚やディティールへの目配りだったし、なによりも映画を、第1部のザイール篇を絵と物語と音楽を個別に描くために用意し、第2部のほうでそれを「総合芸術」としての映画を、小説の中で結実させてみせるくだりはなんとまぁ豪腕な、とねじ伏せられた感じだ。そう映画にはまずアクターが必要で、そのアクターが現代のシャーマンであると、古川日出男は描き出す。たぶんこのあたりは彼の演劇へのリスペクトや、ひいては朗読ギグというアプローチにつながっていくのではないのだろうか。
 余談ではあるが、角川文庫に収録されている『沈黙/アビシニアン (角川文庫)』と同様にこの『13』も第1部「13」と第2部「すべては網膜の終り」の合本なのかと思ったのだけれどまったくもって勘違いだった。ただおれはストーリーが転がり始めた第2部のほうが、みんなでなにかをつくるっていうモチーフもあって、それが本当に楽しそうでよかった。
 なお、主人公・響一が映像におさめた神というのが伊藤計劃の『ハーモニー』とほとんど同じモチーフ*1でびっくりした。あれかな、別の流派の剣豪が結局のところ似た刀の振り方にに近づいていくのと同じ、ということなのだろうか、と思ってみたり。

*1:ただ古川日出男は、伊藤計劃の「これってディストピアユートピアかどっち?」という描き方ではなくて、「これがひとつの救いだ」という描き方だったのだけれども。