すべてはゼロから始めるために

小説家志望の雑記です。

『さよならピアノソナタ4』杉井光

さよならピアノソナタ〈4〉 (電撃文庫)

さよならピアノソナタ〈4〉 (電撃文庫)

 小説を書くにあたっておれは、「書きたい小説」と「書ける小説」との深い深いギャップにいつも打ちのめされている。*1焦燥や無力感だけで書いた小説はもちろんそれだけを抜き出して人は読むわけではないのだけれど、ただただ砂を噛んだようにざりざりと尖っている、急いている。
 しかし、この小説は違った。
 たぶん杉井光は「書けること」と「書きたいこと」がぴったり合わさった、つまり物語と作者の意図が十全に充実して、機能している小説が書けている。彼はたぶん自分がどういう小説を書けるのかをよく知っているし、その枠組みを書きながら押し広げることができるのだろうと思う。あるいはこの小説を書いている途中に、そういうふうに変わっていったということなのかもしれない。そして、誰に対して書いているのかもよく知っているのだろうと思う。読んで楽しんでくれる相手を。
 うらやましい、と読んでいてこの感情が先に立ち上がってきた。今回、読んでいて本当に強く思ったのは「読者をドライヴさせようとして意図している部分がわかっているのだけれど、そのドライヴに素直にひたって読んでしまいたい、楽しんでしまいたい」ということだった。その意図がとても誠実で、引用であればリスペクトにあふれ、全編に渡って「物語の力」と「音楽の力」に対する祈りがあるからだ。まじめやバカ正直というよりも、敬虔という言葉が似合うほどに。いや、ここは作品に倣ってこう言うべきかもしれない――ベースがバンドの心臓であるように、作者の物語への信頼が、小説の心臓なのだ、と。
 そう、おれは残念ながらこの作品を「小説」として読んだ。だってよ、「まわりの旅客たちも、係員も、手荷物もなくびしょ濡れのレインコートで走ってきたぼくを不審そうな目で見ている。でも、ぼくの意識にはそんなものは映っていなかった。」なんて文章が一人称なのに成立するこれを、小説って呼ばずに、他に何を小説って呼べばいいんだ?