ブックスエコーロケーション

「SFとボクらの場所」をテーマにした本屋のブログです。実店舗はありません。開業準備中。

いまだ青年期を脱することができない

 あるいは、ガキでい続けるためのエクスキューズ。


 おれがやろうとしている小説っていうのは嗜好品であって、必需品ではない。読まなくても生きていけるわけで、人生において絶対に必要なわけでない。じゃあなんで、どうして、おれは書くのか、と考える。すごく端的な理由は、確かに、いくつか、ある。ひとつに書く前と書いた後では、明確に自分が違っていることがわかるからだ。成長、と言うと前向きな意味が付されてしまうからここでは単に変化と言うけれど、確かに変わっていると認識できるレベルでわかるし、その変化がたまらなく楽しいから、と、だからおれは、と思っている。変化、は思考によって、小説について考えることによって生まれる。
 この思考は生存には、今日の食事を得るためにはまったく関係のない思考だ。小説は生存に直結しないというのは上でも言ったね。でも大概の生物は食事を得るためにその思考のほとんどを使う。そして実はそれは人間の大人もまったく変わりがない。大人も今日の自分の食事を得るために考えているに過ぎない。それは他の動物となんら変わりのないレベルなわけで、つまり大人の思考は実質的に動物と変わらない。
 でも子どもの期間は違う。自分が生きることに直接かかわりのない、どうでもいい、くだらないことに、存分に悩める期間だ。もちろんこれは日本のような先進国に限った話ではあるのだけれど、自分のその日の生存に直結しないから、その思考は自由でそして可能性に満ちている。*1
 おれはそこに賭けている、賭けていた部分がある。生存から切り離された思考が、生存から切り離された小説をぎらりと輝くものとする。
 もちろん、おれは万能でも天才でもないから、思考のリソースを生存に割いていると中途半端にしか小説について考えられないというのもある。意志の弱さもあるからついつい遊んでしまうし、女の子とも仲良くもしたいし、どんぶり勘定で貯金もできないから生活は逼迫している、という状況で、仕事を辞めて実家、となる。子どもの期間をもう一度、となるんだよ。
 考えること。昔から考えすぎ、と言われてきたおれにはこれしか、そしてこれすらもできなくなったら、それはずいぶんとまずいんだ。


 なんて内容を、友人の誕生日への原始メールに書いてしまうような人間です、おれは。
 でも、理論武装にしては弱いと思う。その日のことしか考えずに生きている人もいるだろうけれど、その絶対数はおそらくおれが侮っている数よりも圧倒的に少ないだろうから。理屈っぽいことが書いてあれば考えて生きている、なんてのだけを信じて生きているわけではないけれど、ここ最近おれはどうにも情緒性の高いものにうんざりしているし、そういう可能性を持っている人と付き合うのが大変になっている。おそらく自分が悩んでいるだろうからこそ余計に、だ。
 人間は信じられないのに、言葉の力は信じられる。いまはちょうど再適応の期間なんだと思う。言葉だけではなく、という考えへの。