小説にせよ他の媒体にせよ、今世間が必要としているものには二種類あるのだと思う。ひとつはKASUKAが指摘している「なにをいかに描くか」を念頭に置いた創作物。もうひとつは「同じメリーゴーラウンド」。
前者は当然次の場所へと向かう必須の姿勢で、今まさに私はこのスタイルを取らなければならない論文とかいうものに泣かされているわけですが、後者も、個人的にはメリーゴーラウンドは止めてはならないのだと思うのです。
古典落語でも水戸黄門でもアンパンマンでもエロ本でも、人々が何度でも乗ろうと思うメリーゴーラウンドは、ある種クラシックとでも言えるようなスタイルを獲得しているのだと思う。それを一切運休にしてはいけないし、人々はそれにまたがりぐるぐると回りながら、新しいアトラクションを組み上げたり組み上がるのを眺めたりするのではないだろうか。
新しいものを作り出すのはメリーゴーラウンドに乗っている人たちで、乗らずに鼻で笑っているような人には作れないと思っているので。
同じ場所に留まりたいと思うことだけでなく、前進したいと思うことも、それ自体は「慣性」あるいは「メリーゴーラウンド」なのかも知れないと思いました。オレは加速してえ、とか言うのはただの言葉遊びだろうか。
すべては「もう何もかも駄目なんだよ。ゼロからはじめるしかないんだよ」という東の言葉の産物。
たぶん重要なのはしばりを文章化することなんだと思います。そうでないと忘れてしまうし、忘れてしまったらしばりがしばりでなくなってしまうし、何より俺もまたwriterという動詞的存在なので。
これらと、ピロウズの音楽があれば書けるかな、いや書こう。