ブックスエコーロケーション

「SFとボクらの場所」をテーマにした本屋のブログです。実店舗はありません。開業準備中。

伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』

 ほんっとひさしぶりにジャケ買いライトノベル。あとタイトルに惹かれた。いやぁこういう「勘」で本を選ぶのは本当にひさしぶりで、まぁその勘もまだまだ鈍ってないんじゃなぁ、と苦笑い。
 おもしろかった。文章も楽しみたいと思っているかぎかっこつきの小説スキーとしては、文章の点ではいくらでもつっこめるけれど、たぶんここで書かなきゃいけないことはそういうことではない。だって、これはライトノベルだしね。イラストと文章とキャラクターで構築された、小説とは別種のメディアなんだから!
 けどそうなると、やっぱりキャラクターやストーリーの構造に目を向けることになる。
 平凡でぼんくらな主人公があらゆる意味で高スペックな妹から「人生相談」を受ける。帯の乃木坂春香がヒントになるので、ああまたこういうタイプのぬるい四コマ系の話か、と思ってうがって読んでいたら、ほんとうにいい意味でその偏見と蔑視を打ち砕いてもらえました。というかたぶんねぇ、わざとそういう感じに受け止めてもらおうとしてさまざまメタ・ライトノベル、というかそれなりにオンタイムで入門的なサブ・カルチャー/オタク文化が投入されているんだろうね、といまさらながらに思うわ。イライラしながら読んでいて、「失敗だったかな」と思って、その実まんまと思わせられているわけ。「ったくなんだってモスバでラッシー飲みながら俺はこんな本読んでんだ?」「でもよ、細部で知ったネタが出てくるとおもろいじゃん」「ヒロインが読モとか、初出のオナマスからまだ半年も経ってないのにさっそくかよ」「貪欲さは評価できるさ」
 でも、この作品がほんとうに上手だなぁと思ったのは、ヒロインを「妹」にしたことだ*1。ただの男女の関係ならばどんなに相手のことを考えて行動したとしてもどうあっても「打算的なにおい」がつきまとってしまう。主人公の「誠実さ」が一瞬で瓦解し、別の意味をもって立ち上がってくる。これはたぶん興醒めだろう。しかし、少なくともこの作品においてその心配はいらない。なぜなら「実の妹」だからだ。しつこくしつこく「実妹いる諸兄は」とか「イベントをこなしても好感度はマイナスに振り切れている」などで、読者*2はひねくれているのでびしばしなにかを刺激されるも、この語り手のキャラクターからまぁそうなることはないんだろうな、と思えなくもないけど……と納得させられていく。
 妹の人生相談やそれに付随する種々のイベントで、彼らの距離は決して縮まったようには見えないように書かれてはいるのだけれど、主人公が見ている妹には新たにさまざまな側面が立ち上がっていく。その中には妹が「好きなこと」に対する「好きさ」加減の半端なさを知ることもありました。
 んで、物語はその好きなことに対する障害が立ち上がる。ああそうですね、抑圧こそが物語という恋愛を盛り上げる最大の要素なんです。
 そうしてその障害のために主人公は己を、平凡な主人公というキャラクターを妹の兄というキャラクターへと、行為によって変化させます。そこでのカタルシスは、ここの骨ばった説明よりも何ぼも胸を打つものと成っています。だってなんら打算さ*3がないのに、建設的な犠牲って胸を打つじゃないですか!
 ああでも、ちゃあんとご褒美としてのタイトルへとつながっていくのは、やっぱりうまいですね。イラストもよかった。
 このライトノベルを読んで、ただの現状擁護じゃん、という意見が聞こえてきそうですが、それはたぶん違うと思います。このラノベは応援しているんじゃないのか、と。蔑視されてしかるべきだと思っているようなものを好きだと思っている自分だって、自分なんだよ、と。そういうのとその他の自分を全部ひっくるめて自分/読者/きみなんだよ、と。そういうものを伝える手段としてライトノベルを選んだ、という意味でなるほどなぁ、と納得もしました。んで、おれでも、その伝えたいことがちゃんとした熱量でもって伝わってきたのでは、と思いました。親でもない、兄というちったぁ近い語り手だから反発はしますが、話は聞いてしまいますよね。
 かつて、天下一品でラーメンをすすりながら熊谷雅人さんが「若い子のために書いていく」というようなことをおっしゃっていたことを思い出しました。読者の顔を思い浮かべる。誰に向けて。ライトノベルがどっちの方向へと開かれているのか、これを読んであらためて気がつけたように思います。ありがとうございました。
 まぁおれがやることが、応援なのか、挑発なのか、はともかく、ですがね。

*1:同じような手法を採用したものに恩田陸夜のピクニック』がある。

*2:俺。「小説」は高尚でそんな小説が大好きな自分が大好きな24歳独身、文化系男子。

*3:動機が好かれたいわけではなく、血のつながった兄貴だから、という宇野常寛が批判していた「状態」としてのキャラクターが新たな「状態」へと変化/シフトすることで行為した、というのがなんというか興味深い。