ブックスエコーロケーション

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伊藤計劃『METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS』

METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS

METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS

Time goes by,time goes by,
tendarness,never die your tendarness,
All can do is singing a song for you.
Stand by me.
                  ――STAND BY ME/GOING STEADY

 作家と作品をすりよせて、あの人はああいう人だからこういう作品になるんだ、なんていうのはナンセンスだと、友人のASAVAは言っていたけれど、おれにはどうしてもこの作品にはそういう視点を持ってきてしまう。
 なぜか知らないけれど、いや、どうしてかはよくわかっているからこそ単なる愚痴にしかならないから書かないのだけれど、作品だけではなくてブログやmixiやそういったほかの文章からのフィードバックがあって、どうしても伊藤計劃という物語を読んでしまう。感情移入してしまうし、すげぇな、と思っているし、こうありたい、こういう文章を、物語を書いていきたいな、という思いがある。
 今回、スネークは蛇の系譜という自らの宿命からの解放を目指し、それによって未来へと語り継がれる、そういう物語の主役として描かれた。どうしようもなく喪っているものがあり、取り戻せないものもあるとわかっているのに、それを贖うために闘っている。難病物の変則パターンであるにもかかわらず、ただただリリカルに逸しないのはひとえに、スネークがおのれ自身の依るべきことを、ただただ行動によって提示していくからだし、なにより彼らが自身の命を、務めを果たすために投資するべき資産であると言わんばかりに、行動しているからだ。そうしてここで友人たるオタコンの視点によってわれわれに語られる、語り継がれる物語として機能し出す。オタコンのベタぼれ二人称視点があってこそ、彼の言葉にわれわれは「そうそう」とうなずきながら読んでいける。このオタコンの暑苦しさが、悲惨であっても決して悲劇に貶めない、物語の熱量を獲得している。ああそうだ、シェパード大尉にオタコンがいればあんな終末は避けられたのかも知れない。
 オタコンの最後のデブリーフィングは本当にエクスキューズな感じがあって苦笑いだったけれど、おれもスネークの物語を追体験したいま、読み終わったいま、その言葉の熱さと正当なる意味を受け止めたいし、受け止められるようになっていればいいな、と思っている。確かにそうだな、と思うのだ。小説を書くということは誰かに覚えていてもらうためでもあるんだ。読んで影響を与えたいし、反応からまた新たななにかを見つけたいし、たぶん自分と相手と、その間に長く長く残っていくものになるかもしれないのだ。彼らとの10年近い歩みを、それをただの祈りとしてではなく、小説として書くこと/語ることによって提示してくださった伊藤計劃に心からお礼を言いたい。
 ほんとうに楽しい物語を、ありがとうございました。


 さぁて、負けてらんねぇな。


 追記(2008・07・22)
 なんというか、あきれてしまう。あとがきであれだけのエクスキューズがありながら、どうしてみんなこの小説を、このメタルギアのノベライズを、一人称なのに知らないはずのスネークの感情をオタコンがわかるんだよ、神の視点が入ってんだよ、なんていうつっこみができてしまうのだろうか、ほんとうにもうなんだよまったく、とぷんすかしてしまう。憤慨、だ。
 この小説は、オタコンがサニーの想い人にスネークの物語を物語るという形式をとっている。一人称のオタコンが主人公のストーリーでは決してない、と言うことがポイントなのだ。語られるスネークが主人公であり、オタコンの語りによってわれわれがそれを享受する。ではあらためて、あとがきを引用しよう。

 人が物語っていく方法というのは、「物語そのもの」と同じぐらいの意味や価値を持ちうるのです。

 だからもう言っちゃうけど、オタコン=伊藤計劃で、スネーク=小島秀夫監督なわけだよ。伊藤計劃小島監督メタルギアを「どのように語るのか」という部分において、その意味と方法によってオタコンの視点を採用したのだ。
 ただただこう言いたがったために。
「スネークの物語ってのはこっ……なにすごいんだぞ」
 と。そうやって物語を語り、語り続けてもらうことすらも覚えておいてもらうために。