ブックスエコーロケーション

「SFとボクらの場所」をテーマにした本屋のブログです。実店舗はありません。開業準備中。

相対化

 なんだかしっかりと、おれは進学というピリオドに左右されている。
 おれは大学生になってから、小説を使って高校生の頃を相対化した。こうあってほしかった、というのと、そんなことは絶対にない、ということのせめぎあいを、ひとつの妄想を、つたない青春小説へと昇華させることができた。「おれ」と「ぼく」というふたりのおのれを描き出すことで、比較しあい、なんとか作品との距離をとることができたのだ。
 大学生の頃は、大学生のうちに相対化できた。その一助にはやはり当時つきあっていた女の子の存在が大きくて、こうあった「おれ」とこうあってどうしようもなかった「彼女」を比較して描き出すことで大学生活を相対化することができた。もっとも近しくなった他人と自分とを比較することによって、ようやく自分の位置を明確に意識することが、作品との距離をより確たるものとして成立していた。*1
 では、いまは、社会人2年目のいまはどうなのか。
 いまは、日々に埋没している。完全に、完璧に。まだまだ、この新しい生活に慣れていない。落ち着いて自分を見ることができない。その方法を見失っている。どうやってなにをやればいいのか、思い出さなければならない。
 でも、マイルストーンは変わらない。小説だ。
 なんか中途半端にでも社会人をやっていると、自分以外のなにかの関係においてこそおのれが存在できる、とついつい錯覚してしまうけれど、そんなことはうそだ。いまのおれはただ生きている。ただ生きていればいい、という「生命よりも大切なものはない」という「大きな物語」に、おれまで帰依する必要がどこにあるのか。
 さて、投下しよう、なすべきことをなすために。

*1:でも「彼女」はその補完する掌編で無事に「彼女」の殻から脱出して「サトミ」という個別のキャラクターとなりえた。この経験はやはりおのれの中での処理の方法が変わってきたということと、処理できるようになった、ということであると思いたい。