冲方丁が『ばいばい、アース』を4巻の途中で中断してこいつにとりかかった。
いうまでもなくおれは瑞っ子で、こいつは待望の作品だ。
今回の秋山瑞人は、なにをやろうとしているのか。彼が毎回作品によって種々の試みを行っていく小説家である、ということはいうまでもないだろう。『イリヤの空、UFOの夏』が過剰なディテール描写によって「郷愁」そのものを「物語」となしえたように、『猫の地球儀』では先駆者の孤独と攻撃性を絶対追従者たるロボットの視点で悲哀でもって彩ってみせたように、今回『龍盤七朝』ではなにを、やろうとしているのか。
電撃文庫は販促用に表紙をポストカードになしたものを配布しているのだけれど、藤城陽が描く月華のポストカードの裏面に、実は今回秋山瑞人がやろうとしていることが書いてあるのだ。先に、本書を読む前に、それを読んでしまってから「あーあー」とちょっと自分の不注意さを嘆いてしまった。そこにはこう書いてあったのだ。
「鬼才が贈る、剣をめぐる天才と凡才の物語」
あー、まぁここを読んでいる人はすでに読んでしまっているだろうから、書いてしまう。警告なしでネタばれだ。
誰が天才で、誰が凡才なのか。あからさまにこのライトノベルのキャラクターは二項対立で構成されていて、誰にとって誰が優位者となり、それが覆る瞬間にカタルシスをもってくるのか、ということがあっさりと眼前に立ち上がってくる。もちろんそこは、武人がおのが武でもって成立する武侠小説である、ということがさも自明のように「引き比べる」ことのあざとさを消し去っている。闘ってどっちが強いか証明する。実に、シンプルな原理がこの、小説としても読めるライトノベルの通奏低音になっている。
しかしまぁ、こういう異能者バトル物ってのはライトノベルの界隈じゃ書き尽くされている感じもあって、そこで秋山瑞人はどうやって差をつけようとしているのか、って部分にやっぱ目がいってしまうわけだ。
ひとつ、武侠小説であること。現代でも学園でもSFでもファンタジーとも違う、武林の異世界を涼孤という最底辺の階層から描き出すこと。月華との階級差/文脈の違いによって実に丁寧に異界が創出されている。そうして中華的なお約束が支配する武侠小説を、お約束を消費することに高い親和性を持つライトノベルに持ち込んだのだ*1。
ひとつ、作中作が露骨さの排除していること。作中、辻で行われる演劇の演目や内容は言うまでもなく涼孤や月華のいままでとこれからとを描いている。彼ら自身がいかに悲惨*2で、しかしそれでも生き抜いてきたのかを、暗示している。もちろん、六牙の劇のオチがなにを意味しているのか、ということも。しかしまぁ作中作だけでも充分おもしろい、というのがいい。
ひとつ、蓮空がおれだ、ということ。読んで字のごとく。蓮空はおれのために書かれたキャラクターだ。ああそうだ、ここでも引用しよう、彼が涼孤の可能性に触れてしまい、家に閉じ篭っているあいだに考えている、その文章を。
禿は考える。二十と二歳、剣をもって立身を志す者としてはもう決しては若くはない。未だ修行が足りぬと、未だ勝負の時にあらずと毎日思って、ふと気がついたら三十六番講武所の最古参になっていた。口を開けば途方もない夢を語り、命金を免罪符にいつまでも腕を磨いてられる永遠の半人前だ――そんな立場が、まるでぬるま湯の中のように居心地がよかったのだ。
いつか何とかなる――ずっとそう思ってきた。
いつかどうにかする――ずっとそう思っていた。
しかし、その「いつか」とは一体いつなのだろう。
いままでかかってどうにもならなかったのなら、ひょっとすると、この先もどうにかなることなどないのではないか。
そう自分自身に認めさせるのに半月かかった。
そして、一度そうと認めてしまった禿の「いつか」とはもはや待ったなしの「今日」でなくてはならなかった。遠い遠い道のりを歩き続けていたつもりで、自分でいつしか袋小路に立ち竦んでいたのだと禿は思う。ここには何もないし、どこにも行けないし、誰も手など差し伸べてはくれない。もう充分だ。
これ以上待っていてはいけないのだ。――『龍盤七朝 DRAGONBUSTER 01』武人の上下より
ああ、彼はおれだ。どうしようもなくおれであり、おれよりも二歩も三歩も先を歩く、おれだ。この文章に出会えただけで、おれはこの本を読んでよかった、と思えるのだ。ありがとう、と思えるのだ。
- 作者: 秋山瑞人,藤城陽
- 出版社/メーカー: アスキーメディアワークス
- 発売日: 2008/05/10
- メディア: 文庫
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あと、これは蛇足ですが、あとがきに「デストロイ」の文字が見えた瞬間、未完フラグが立ったwwwと思ったのはおれだけではないはず。
追記:2008/05/14
武侠、武侠と知ったかぶりして言葉を使っていましたが、id:adramineさんによれば武侠には「善悪の対立構造」であったり「弱気を助け、強気を挫く」のような要素をもって武侠である、とのこと。ゆえにDRAGONBUSTERは「武」はあってもいまだ「侠」は見えず、ということなのですって!
いやぁ〜中国先輩の作品を読んでいながらそういう要素をころりと見落としていたのは不明のいたりですな。勉強になりました。そかそか、うーん、おれはどう考えても中華×アクション=武侠小説、と思っていたのですが、どっちっかつうと構造的にはクラッシュブレイズとかそういう感じに近いのですね、武侠小説。*3