すべてはゼロから始めるために

小説家志望の雑記です。

神林長平『天国にそっくりな星』ほか

 あらためて言うまでもないことだけれど、おれは神林長平が好きだ。
 どういうところが好きなのかと言えば、「小説」について考えて小説を書いていてそれがきちんと成立しているところだ。神林長平は「機械」と「言葉」が重層に絡んだ物語を編む、SF作家だ。でも、ここではその前提というかイメージを捨てたいと思う。「機械」という言葉はどこかで非常に狭い領域しか指し示していないし、「言葉」だってそうだ。しっくりこない。そんなふたつにわけて考えなくても、と思ってしまう。もっと包括的な言葉でびしっと表現したい。1語や要約やあらすじが書けるのなら小説なんて書いてない、なんていうおれの卑小な姿勢はこのさい捨て置こう。
 神林長平は「小説」というメカニズムについての小説を書いている小説家だ。
 翻訳家の管啓次郎ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学若島正桜庭一樹との対談で文学について非常におもしろく、「そうそうそういう感覚。それがおれが小説に求めてるもんじゃん」とニヤニヤしてしまった発言があったのであえてコピペ。

 桜庭さんが基本的に約束事を裏切っていく、離れていく方向で書かれているというのがいいですね。もちろん、それが文学の王道ですけれど。文学ってよくアイデンティティつまり自己証明の手段のようにいわれるけど、ぼくは文学というものは読むほうにとっても書くほうにとっても自分のアイデンティティをなくすという作用の方がずっと大切だと思っています。つまり、文学とは、自分が男であろうが女であろうが、若かろうが老いていようが、どこの出身だろうが関係なく、その中で別の存在になっていくための場所であり装置だろうということ。
 もちろん、まったく何の予断もなく作品を読むことはできないので、ジャンルという指標はそれなりに意味があると思いますけど、そういった予断が裏切られていく瞬間がいちばんわくわくする。できかかってきたアイデンティティがどんどん裏切られていって、思いもかけないところへ着地するというのが、ぼくにはおもしろい。

 この感覚、どっか聞いたことあると思う。
 そう、SFではこういう感覚をセンス・オブ・ワンダーって呼んでいる。

 なんだかちょっとプライベートでなんにもなくて刺激が欲しい。うわあああ、と叫び出したくなるようなそういう感覚が欲しい、と思ったので好きな作家ストックの中から神林長平(SF)を引っぱりだしてきた。神林長平強化月間。ちなみにその箱の中には古川日出男スリップストリーム)と舞城王太郎(ミステリ)の、まだ読んでいない本が入っている。好きな作家の作品はもったいなくて全部読めない、おれはそういう貧乏性。
 で、『ルナティカン』と『過負荷都市』、『天国にそっくりな星』を読んだ。偶然だったのかはわからないけれど、っていうかそんなわけは当然ないのだけれど、この3作品はすべて上記の管氏の文学への感覚がしっくり当てはまった。そのどれもが自己の定義と改変とそれゆえの揺らぎがもとになって物語が駆動していた、そういう小説だった。当然われわれ読者も異界/遠未来/異次元に放り込まれ、なんとか基準点/足場を見つけて物語に乗り込もうとする。でもあっさりと神林長平はその足場を崩して、そうしてその圧倒的な崩しっぷりにわれわれは魅了される。こういう書き方があるんだ、と世界が広がった思いがする。
 もちろん、こういうのを予想してよし当たった、とかそういう風にやるのが楽しいというのもあるのだろうけれど、おれはどうにも素直に物語に入り込んでしまう口のようで、素直にびっくりしてしまう。うわぁすげぇ(にやにや、となる。
 小説を書くんだ、と息巻いて「ただの」小説じゃあつまらなくなってしまった、おれ。そんなおれにとって、神林長平はとても素直に読める/楽しめる、そういう数少ない小説家のひとりなのだ。

天国にそっくりな星 (ハヤカワ文庫 JA)

天国にそっくりな星 (ハヤカワ文庫 JA)

過負荷都市 (ハヤカワ文庫JA)

過負荷都市 (ハヤカワ文庫JA)

ルナティカン (ハヤカワ文庫JA)

ルナティカン (ハヤカワ文庫JA)